みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【5】

「逃げ切ったと思ったら! 何でここにもクシクス人がいんだよ!」
 帰って来るなり工房の入り口の床にうつぶせに倒れ込んだルーは、目だけを動かしてアカツキを一睨みすると悲鳴を上げた。荒い呼吸が辛そうなのだが、それでも叫ばずにはいられなかったらしい。隣で突っ伏しているアカネも、肩を大きく上下させながら必死に息を整えようとしている。いったい、この二人に何があったのだろう――口を開こうとしたラグよりも先に、低い声が響いた。
「どこかで会ったのか、クシクス人に」
 落ち着き払った声でルーに尋ねたのは、アカツキだった。ルーはむっくりと体を起こすと、アカツキを半ば睨み付けるように、早口で言った。
「今ここで会ってるだろうが」
「私のことではない。『ここにも』クシクス人が、と言っただろう」
 冷静にルーをいなして、アカツキはさらに訊く。それがルーの神経を逆なでしたのか、彼は床に置かれたクシクス様式の剣を指さすと嫌みたっぷりに怒鳴った。
「追っかけられたんだよ、それと同じような剣を使う奴らにな! ……そういうあんたは、いったい何者だ?」
「ルー、冷静に。……アカネさんのお客さんだそうですが。お知り合いですか?」
 二人の間の一触即発、という雰囲気を感じ取り、ルーの問いにはアカツキの代わりにフィスタが答える。しかし、アカネは首を横に振るとアカツキを見上げた。その様子は昨日ラグが彼女を初めて見たときの印象とは異なり、強い力を感じさせるものだった。
 不審げなアカネの視線に、アカツキは再び自己紹介をした。
「もう一度名乗る。私はアカツキ=タチバナ、傭兵。……酒場の歌姫だな? それで、クシクス人に追われたとは?」
「私を、狙っていました。あなたは、いったい何なんですか。どうして、私を訪ねて来られたんですか。宿屋に忍び込んだ人と、関係があるんですか。……私がここのお世話になったせいでみなさんを巻き込んだのだとしたら、私にはその理由をはっきりさせる義務があると思うし、みなさんにもそれを知ってもらわないと」
 まだ大きな呼吸を繰り返しながらも、アカネは立ち上がって自分よりもかなり上にあるアカツキの顔を見返し、はっきりと尋ねた。何か吹っ切れたような態度。まるで昨日とは別人のように、アカネはしっかりと自分の意思をアカツキに告げる。
 一方、アカツキの方はといえば相変わらず表情を変えずにそれを聞くと、何ごとかを沈思し出した。俯いて瞳を閉じ、ううむ、と唸ると、自分を見上げて答えを待っているアカネに言った。
「しかし、他人を巻き込むわけにはいかない。できれば、彼女と二人だけで話を――」
 実際にはアカネに対しというよりは、独り言に近い呟きだ。
「俺とアカネさんは、もう巻き込まれてんだよ。殺されかけたからな。聞く権利はあると思うぜ?」
 遮ったのはルーだった。まだ喧嘩腰ではあるものの、息が落ち着いたからか、言葉の棘はさっきよりも若干少ない。
「アカネさんが困っているのなら助けたい、ただそれだけの話です。……アカツキさんに都合の悪いことは絶対に口外しないと、人形姫に誓いますから。力になれることがあるのなら、聞かせてください」
 人形姫に誓って、というのは、リトリアージュでは決まり文句のように使われている言葉だった。『人形姫』は、昔話に登場するリトリアージュの姫だ。王家は代々長命なので、いつどんな時も人々の行いを見守っているのだという考えがあるという。特にリトリアージュに憧れていたラグは、ここに来る前からこの文句を知っていて、ことあるごとに口にしていた。
 アカツキも、どうやら人形姫の話を知っていたらしい。ラグを見て、彼は切れ長の目をわずかに細め、微笑んだ。彼の瞳の金色は見覚えがあると思ったが、アカネの耳を飾っていたイヤリング――彼女の名付け親の置きみやげと同じ色をしている。
「誇れる王がいる国は、いいな。……私は、誇れぬ長がいる国から来た」
 アカツキはクシクスを侮蔑する言葉を吐き捨て、半眼になった。
 ラグは詳しくはないが、クシクスの長といえば絶対的権力を持つ国軍のトップだろう。今は国を離れ、旅の空とはいえ、自国のことをそう否定的に断言してしまってまずくはないのだろうか。増して、クシクスのような上からの圧力が強い土地でそんなことを。
 フィスタもそれを察したのか、低い声で改めてアカツキに念を押した。
「大声で言わない方がいいのではありませんか」
「構わない。私は、あの国に良い感情はない」
 ついに、アカツキは言い切った。
 ラグがふとフィスタを見ると、すっかりいつもの優しい瞳に戻っていた。やり取りをするうち、フィスタの中のアカツキへの評価はどうやら良い方へと傾いたように思える。それは、アカツキから裏のない誠実さを感じ取ったラグも同様だし、おそらくはルーもそうだろう。ただ、アカネだけが硬い表情で黒髪の青年をまっすぐ見据えている。
「先ほどの話を少し聞いただけでも、あなたはずいぶん必死だと分かります。きっと、彼女に会いたかったというのは本当なんでしょう。……でも、私はそれを鵜呑みにするほどいい人ではありませんからね。話があるなら、私たちも一緒に聞きます」
 しかし、それでもやはりフィスタはフィスタだった。言葉はいつも通り丁寧であるものの、有無を言わさずという口調。それが、頼れる師匠なのだ。
「わかった。……みな、残らずお節介だな。だが、そういう――家族は、嫌いではない」
 アカツキのわずかに橙がかった金茶の瞳が、少しだけ寂しげに揺れた。

「私の父はスオウ=タチバナ。クシクス屈指の魔術師であり、剣士でもあった。……証拠になるかは分からないが、父が軍服に付けていた階級章がここにある。一時は筆頭将軍を任されていた」
 アカツキが懐から出して示したのは、クシクスのシンボルである双頭の龍の図柄の入った勲章のようなものだった。かなり年季が入ったものらしく、金属部分などはずいぶん渋い光り方をしている。これが例え偽物だとしても、ラグ達には確かめる術がない。今は、彼の言い分を信じて話を聞くしかないのだろう。
 筆頭将軍といえば、おそらくクシクスの中ではいちばんトップに近い位置。では、そんな要人の息子がなぜ流れて傭兵などを。ラグの疑問より早く、さすが行動の人というべきか、ルーが口を開いていた。
「それ、まさか嘘じゃねえよな? そんなお偉いさんの子が、なんでこんなとこに?」
「私は、嘘はつかない」
 アカツキは、なぜかそこでアカネに目をやった。唇をきつく噛み、相変わらず緊張した面持ちで異国の青年を見つめるアカネと、アカツキの鋭い視線とが交錯する。その瞬間、アカツキの瞳が何とも言えず穏やかに光った。アカネが驚いて息を飲んだのが、ラグにもはっきりと分かった。
 隣のルーが、発言していいかどうか判断を請うようにフィスタを見やった。師匠が首を縦に振るのを確認して、彼はまだ疑うような口調でアカツキに尋ねる。
「でも、アカネさんとの繋がりは見えねえな。あんた、いったい何を話そうとしてるんだ。自己紹介をしに来たって訳じゃねえだろ? それがアカネさんに関係あるのなら話してもらわなきゃいけねえんだろうけど」
「関係ある。私は、彼女と話をするために旅してきた」
 アカネを気にしながら、アカツキは言った。それを受けて、今まで黙っていたアカネが、おもむろに口を開く。
「アカツキさん」
「何だ」
 アカネに対するアカツキの態度は、他の面々に接するときよりも明らかに優しい。無愛想に聞こえる返答にも、言外に何か含むようなものが感じられるのだ。
「それは、私の小さいころのことですか。……私には、戦場から助け出されるまでの記憶がありません。育て親に預けられてからが、私のすべてです。だから、昔のことを知っているのなら、ぜひ教えてください。一体何があったのか、私は、私の月日を取り戻したい。だから、どうか」
 驚いたことに、アカネはアカツキに向かい合うと床に膝を折り、深く頭を垂れた。
 自分の中から『昔』が抜け落ちるというのは、それほどに不安なのだろう。彼女にしか分からないであろう憂いはずいぶんと膨れあがっているらしかった。呆気に取られながらも、北を目指しているんだと明るく話していたアカネの本音を見抜けなかったことに、ラグは少々落ち込む。まさか、アカネがそんなにも思い詰めて、過去を欲していたとは考えていなかった。
 アカツキも、一向に顔を上げようとしない彼女にさすがに動揺したのか、「やめろ」と短く制す。説得の後ようやく元のように座り直したアカネに、アカツキは眉間に皺を寄せながら告げた。
「私は確かにあなたの過去を少しだけ知っているが、そんなにいい情報ではないと思う。いや、悪い話だ。だから、そのように頼まれると、痛い」
 胸を押さえ、アカツキは一瞬、軽く瞳を閉じた。彼の心が痛むのは何故だろうか。アカネが育ての親の元へとやってくる前の何かを思っているからなのか、それとも悪い知らせを聞いて哀しむアカネの顔が浮かんだからなのか。
 そんなアカツキに、穏やかに、しかしきっぱりと、アカネは答える。
「大丈夫です。思い通りの事実ではなくても、過去があるだけでありがたいんですから」
「……あなたはとてもしっかりしているようだ」
 アカツキは小さく息を吐くと、少しだけ表情を緩めた。彼も、痛みを感じながらも話すという覚悟を決めたようだ。
「ならば、分かり易く話そう。……実は、父はすでに亡くなっている。ソラルセンとの戦闘のさなかに軍令に反したとして捕らえられ、獄死した」
 予想外の言葉に、場のすべての人間が絶句した。
 肉親の死に触れているのに、表情を殺しているのか、感情が外に出にくい性質なのか、アカツキは淡々と話す。軍事国家においては、確かに軍令違反は重罪だろう。しかし、果たしてそれだけで国のトップに限りなく近い地位の人間を投獄し、死なせるものなのだろうか。
「そんなに偉い方が、なぜそんなに惨い――?」
「もともと、あの腐った国にあって、義や情を重んじる父は煙たがられてきた。軍令違反は、父を陥れる格好の理由だったのだろう。……捕まる直前、父は罪が及ぶのを恐れて、家族を国外にやった。今はみな散り散りで、どこで暮らしてるのか、無事なのかも分からない。しかし、私は納得ができなかった。確かに真っ直ぐで、敵を作りやすい人間だったが、生粋の軍人でもあった父が軍に背いたというなら、きっとそこには何か理由がある。そう考え、私は時間が許す限りクシクスで情報を集め、父が捕らえられたわけを調べ、その死を見届けてから国を出た」
 フィスタの言葉に、アカツキは頷いてそう続けた。敵が多かった、正義の人。周囲は、いつか足を引っ張ってやろうと、言いがかりを付けるきっかけを探していたのかもしれない。
 将軍の子ならば実力はさておき、七光りとはいえ軍で取り立てられるはずだ。なのになぜアカツキはリトリアージュで傭兵などを――それが、ラグたちが始めに抱いた疑問だった。
 しかし、彼の父親のことがなかったとしても、アカツキがクシクスの軍でやっていくのは難しかったかもしれないとラグは思う。実直なスオウ将軍の印象は、アカツキにも色濃く継がれている。とつとつと真実のみを語ろうという姿勢は、アカツキの評する彼の父そのもののように感じる。ただ、小細工を好まず筋を通す性格は、アカツキが言うような腐った国では嫌われるのではないだろうか。
「私には未だに信じられない。信じていない。が、戦略上責める必要もない、何の咎もなかった小さな村を焼いた――というのが、父が捕まった理由だった」
 そして、これまでほとんど淀むことなく流れてきていた会話が途切れる。
 嫌な沈黙だった。きっと一瞬の後、何か決定的に『悪い話』がやってくるのだ――ラグには場の空気が変化するだろうという予感があった。思わずアカネの方に視線を投げると、彼女はまばたきもせずにアカツキの口元だけを凝視していた。アカネもきっと同じ考えで、これから来る何かに耐えようとしている。
「父に、焼かれた村。……そこが、あなたのふるさとだ。そして」
 やがてアカツキは、今日初めて声を震わせ、アカネに告げた。
「父が、唯一そこから救い出した生き残りが、あなただ」
 ほぼ同時に、「ひっ」という息づかいがラグの耳に届く。それはアカネの口から発せられた、声にならない驚きの叫びだった。