みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【6】

 アカネは何か言いたげに唇を震わせていたが、結局言葉を発することなく俯いてしまった。彼女をしばらく黙って見つめていたアカツキは、淡々と自分の胸の内を述べる。
「戦とは無関係の人々を焼くなど父にはあり得ない。裏には誰かの悪意があったのではないか、と――それは想像するしかないが。……あなたに記憶があれば納得してもらえただろうが、それを言っても仕方がない。あなたを救い出したことだけは真実だと私は信じているし、父本人からも聞いたのだ」
「でも、お話の通りなら、わ――私のせいで」
 声はかすれて消え、それきり、アカネは口を閉ざしてしまった。強く眉根を寄せるアカネの顔は苦しげで、過去を取り戻すだけには留まらないアカツキの話に、大いに混乱しているようだった。
 それは、アカネが無くした記憶に少しでも近づけるようにと願っていたラグも同様だった。ラグ自身やカヤナとよく似た過去を持つアカネ。彼女の受けた衝撃はどれほどだろうと想像を巡らすだけで、心が痛む。しかし力になりたいと思っても、実際、取り戻した真実に呆然とする彼女を前にするとかける言葉が見つからない。
「……これに、見覚えは無いだろうか」
 沈黙を断ち切るように静かにそう言うと、アカツキは髪を掻き上げて自分の左耳を示す。フィスタ、そしてルーとラグはその指先を凝視した先には、昨晩話題になったばかりの魔法の金の宝玉が揺れていた。しかし、アカネのものと全く同じではなく、対になるであろう左の金の石。
 ラグはアカネの昔語りを思い出していた。
 アカネを育ての親の元に預け、金の石に謎の魔法を掛けた男は、『火事からこの子を救い出した』と言い残したという。そして、焦げた軍服を着ていたとも。
 その上、お揃いの金の石。右はアカネ、左は名付け親が持っていると彼女自身が話していたはずだ。左を持つアカツキは、何らかの形でアカネの名付け親と繋がりがある人物に間違いない。証拠はすべて揃ったと言ってよかった。
 アカツキを見ると、相変わらず抑えた表情でアカネに視線を送り続けていた。アカネも辛いだろうが、父が非業の死を遂げる原因となったかもしれないアカネの居場所を探し求め、こうして自分の知る全てを伝えに来ている。彼だって苦しくないはずはないのに。
 アカツキの印象が、彼の話す父親、スオウと大いに似通っているからか。戦場で敵国の少女の命を救う将軍の姿は、ラグには何故か容易に想像できた。ひたむきで真っ直ぐな生き方は、血筋だろうか。
 双方の思いに突き動かされるように、ラグはアカネの背をそっと押した。
「アカネさん、見てみたら? アカネさんのと同じ、じゃないですか?」
 ラグがそう促すと、アカネはようやくゆるゆると顔を上げて――そして、そのまま固まった。眼は一点、アカツキの耳元を注視している。それが、何よりの証拠だった。アカネも同様に、右耳の金色をアカツキに晒す。
「私が――命の恩人から譲り受けたものは、これです。同じものです」
「私のものは、父の形見だ。獄中から託された。……父が誇りを懸けて護ったのが、あなたで良かった」
 アカツキがゆっくりとピアスを外し、アカネの目の前のテーブルへと置く。
「これは、あなたに渡しておく。私には似合わぬものだ。きっとあなたが持っていた方がいい」
 そうは言うが、アカツキには金色がよく馴染んでいた。父親は、息子の瞳の色を思い出しながら選んだのだろう。それは今この時から、父に命を救われた『娘』のものになろうとしている。
 アカネはすぐにはそれを受け取ろうとせず、涙を溜めた瞳をアカツキに向けた。いつの間にかそれは、先ほどアカツキに話を促したときの眼に戻っていた。
「突然訪ねてきたのだ。父が火を掛けたのではないと信じろ、と言える立場でないことは承知している。ただ、父が救った命に会う、という夢を叶えることができただけでも嬉しい」
「もとより信じる以外の選択肢はありません。私の過去は『無』ですから。……情報があれば何でも、という気持ちでしたが――恐らく、アカツキさんがいうことが真実なのでしょう。伝えてくださって、ありがとう」
「いや、こちらこそ。……気に病むことはないぞ。あなたのせいではなく、父がしたくてやったことだ」
 アカツキはかすかに微笑んだ。
「……私の他に、助け出された人は」
「間に合わなかったと、父は悔やんでいた」
「そう、ですか」
 アカネは、そう言いながらようやく笑顔を見せた。少し寂しげではあったけれど、ラグには心からの表情に思えた。
「……私が助かって、アカツキさんが来てくれただけでも感謝しなければいけないのに。我が儘でしたね」
「やっと笑ったか」
 ルーがちゃかすように口を挟むと、アカネは歌姫らしい美しい声で「はい」と一声応じた。ルーのことだ、きっとずっと何か言おうとするのを我慢していたのだろうと、ラグは目を細くする。手も口も早い彼にしては耐えた方だろう。
「すまないが、まだ続きがある。実は、急ぎの用――本題はこちらだ」
 緩んだ場を引き締めるように、アカツキが姿勢を正してアカネに語りかけた。
「……あなたさえよければ、話したいのだが」
 アカネは、何も言わずアカツキを見て頷いた。無言で通じ合うかのように、アカツキもそれに応じる。まるで、遠い昔から家族であったかのような仕草に、ラグははっとした。出会ってからのわずかな時間に、二人はごく自然な呼吸でやりとりしているのだ。
「もう気付いているかもしれないが、私があなたの足跡を辿ってきたのと同じように、あなたを探しているやつらが他にもいる。……クシクスの人間たちだ」
「あ、さっきの!」
 ルーが、彼らしい叫び声を上げた。アカネに代わり、早口でまくし立てる。
「新月亭の帰り道で俺たちを追ってきたあいつら、クシクス人だっただろ。アカネさんを狙ってたんだ。新月亭で待ち伏せされたとか、仲間が斬られたとか言って、俺も仲間の仇と間違われて襲われて」
「確かに、この街に来てから何度かやつらを追い払った」
「ってことは、仲間の仇ってのはおま……アカツキさんのことだったのか」
「そのようだな」
「でも、どうして今更アカネさんを探す必要が――」
 何か言いたげなルーを眼で制し、アカツキはアカネに気遣うような視線を送る。当のアカネは、先ほど追われたというのを思い出したのか顔が曇っていた。
「唐突だが、あなたは『風神』という言葉を聞いたことがあるか」
「フウジン? ……いいえ」
「東の言葉で、『風の神』という意味ですよ。風を友とし、風を起こして風に乗る、伝説の存在」
 首をかしげたアカネへの、フィスタの助け船。アカツキが頷く。
「その先生の言うとおりだ。こちらには、『風神は西方にいる』という言い伝えがある。クシクスでは、西風は勝利を運んでくるのだと、勝負や賭け事の神として古くから大事にされている」
「風、風神。風の神。クシクスの西は……ソラルセン。アカネさんの故郷」
 もごもごと呟く低い声に、ラグはぎょっとしてルーを振り返った。彼は、何ごとかを唱えるように何度も繰り返していた。その声は次第に大きくなり、アカネに呼びかける。
「――アカネ、さん」
「何ですか、ルーさん」
「さっきのこと、覚えてますか。俺たちがどうやってクシクスの奴らから逃げてきたか」
「ええ。ルーさんが、煙や光が出る球を投げて――あとは、全力で走って」
「それじゃ、足りないんだ。覚えてないのか。俺たちは、追い風に乗って逃げ切れた。風に運ばれたんだよ! ……おい、アカツキさんよ。もしかして、アカネさんが『風神』だなんていうんじゃないだろうな!」
 身を乗り出し、必死の形相でルーが叫んだ。さすがのアカツキも、やや目を見開いてルーに問う。
「それは、本当か。彼女が風を起こしたというのは。……あなたは、記憶には無いのか」
 首を思い切り縦に振るルーを確認すると、アカツキはアカネにも尋ねた。彼女は何度かまばたきをした後、心細そうにぽつりと答えた。
「分からない。必死で逃げていたから、風があったかどうかも思い出せないもの」
「アカネさんが叫び声を上げた瞬間に、突風が。それで、敵を振り切ることができた」
 うなだれるアカネに、今度はルーがゆっくりと言い聞かせた。その場を見ていないラグにも、どうやらアカネが『風神』と呼ばれる能力者であることが朧気ながら理解できてきた。そして、それが原因でアカネが追われているらしいことも。
 震える声で、アカネが尋ねる。
「私が、そうだ――と?」
「『風神』は、風を自在に操る『人間』なのだそうだ。父からの受け売りだが。……あなたの村は、おそらくは風を操る人々がひっそりと暮らす村――であったと思う。そしてきっと、火を掛けたのはクシクス。意のままに動かないなら、村ごと消してしまえば安心できる。父によれば、そのころはまだ勢いに任せてそういう戦をしていたのだそうだ。しかし、今は駒が足りない」
 ラグの耳から、アカツキの声が遠ざかっていく。親を亡くしたときに負った傷跡が、うずき出していた。
「自然を操る力は、クシクスにとっては大きな戦力になる。生き残りがいるとなれば、懸命に探し、手に入れようとするはずだ。……クシクスはソラルセンを攻めあぐねて結局諦め、今度は北との戦をはじめた。それが長引き、ここしばらく戦況は膠着状態――」

 おおきなせんりょくになる。
 幼い頃、嫌と言うほど聞いた言葉だった。激しい吐き気に襲われて、ラグは口を押さえた。
 涙がにじむ。昨日からの気分の悪さは引いたと思っていたが、今や再び最高潮へと達していた。目蓋は閉じてはいないのに、目の前には何も見えなかった。
 アカネの境遇は、ラグ自身と同じと言っていいほどに似ていた。本人の意志などお構いなしに、力のある人間を暴力のために使おうとする。
 ――未だにそんなことがあるのか。私の家族だけではなかったのか。どうしてそんな愚かなことを。また――再び、三たびと悲劇が生まれていくだけだ。人間は人間であって、武器ではないのに。みんな、幸せになるために生まれてきたはずなのに。
 と、ラグの肩に暖かいものが乗った。ラグは、その『何か』にすがろうと、反射的に自分の冷え切った手を添える。
 この手触りは、誰かの大きな手。そして、温かい手。
 ラグがそう気付いたときには、ルーの声がごく近くで聞こえていた。
「なあ、アカツキさん。そこは、詳しく話さなくてもいいところじゃねえのか。アカネさんが困ってる」
 肩に置かれた手の重みが、少しだけ増す。ラグが見上げると、ルーの深い青の瞳はこちらに向けられていた。それは、遠い昔、命を救ってくれた恩人のものによく似ている。心が落ち着くのは、そのせいだろうか。
「……ああ、悪かった。つい、話しすぎてしまったようだ」
 アカツキは軽く頭を下げて「失礼」と詫びると、元の話へと戻る。おかげで、ラグはそれ以上沈みこまずに済んだ。肩に乗った手はなかなか離れず、それがとても心強かった。

 ラグが現実に戻ってくると、ちょうどアカネがアカツキとやり取りをしているところだった。
「私、そんな大層な――風の神なんかじゃないんです。孤児で、今はただの歌い手で」
「あなたがそう思っていたとしても、クシクスにとっては『人間兵器』なのだ」
「そんな!」
 身も蓋もなく、アカツキは言い捨てた。しかしすぐに、下唇を噛むアカネに表情を緩ませ、いくぶん柔らかい口調で言う。
「そんな顔をするな。誰が何と言おうとも、私にとってはあなたが父の大切な形見であることは変わらない。……父は、私にあなたを託そうと『アカネ』の名を選んだはず。私はその志を継ぎ、あなたを助けよう」
 アカネは夕焼け、アカツキは夜明け。スオウ将軍は、こうなることを予想して『娘』に息子と対になる名を送ったのだろうか。そうだとしても――だからといってアカツキはなぜここまでアカネに対して一途に尽くそうとするのだろう。
「あなたの故郷へ行けば何か分かるかもしれないが、すでに村は消え、クシクス領になっている。あなたには危険だ。せめて父の墓前にでも連れて行ってやれたらいいが、罪人の父には墓など無い。つまり、逃げる当てはない。しかし逃げなければ、捕まって利用されるのは明らかだ。……腕は、人並み以上には立つつもりだ。きっと、役に立ってみせる。一人で逃げ切るか、私と一緒に逃げるか。時間はないが、明朝までに決められるか」
「……アカツキさんは、どうしてそんなに良くしてくれるんですか」
 単に『親のしたことの償い』だけでは表しきれない何かを、ラグも感じていた。アカネのこぼしたその問いに、アカツキが笑う。
「母を早くに亡くし、父にも何もしてやることができなかった。『妹』がいると知ったときから、護ると決めていたのだ」
「『家族』だから?」
 アカネはそう言うと、頷いたアカツキ同様にふわりとした笑みを浮かべた。そして、テーブルの上の二つのピアスを手に取り、しっかりと握りしめる。
「明日、ですね。覚悟を決めるには充分かもしれません」