みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【7】

 部屋へと向かう廊下を歩いていたラグは、前を行くアカネの背にぶつかった。
「あら、ごめんなさい。ちょっと、考え事を」
 アカネは振り向いて言うと、照れ笑いを浮かべた。
 どうあっても身に危険が及ぶであろう難しい選択を迫られ、彼女が考えるべきことは山ほどあるのだ――それはラグにでも分かる。
「今日はできるだけゆっくり休んでください。もしかしたら、明日、早々にも発つことになりますよね」
「心配してくれて、ありがとう。……本当のことを言うとね、もう決まってるんです」
 今度はきっちりとラグのほうに向き直って、アカネは迷わず言い切った。
「じゃあ、行くんですね」
「ええ。せっかく過去の手がかりが掴めたんだもの。例え、何が待っていても行くつもり。私がその何とかという伝説と関係があるかどうかは別として、ね。……だから今日はきっと、穏やかに休める」
 にっこりと笑うアカネの様子に、ラグはほっとして胸を撫で下ろす。女性らしすぎる見た目が隠れ蓑となっているが、アカネはこんなにも芯の強い人間なのだ。過去を思い出すごとに気が遠くなる自分と比べ、何と頼もしいことか。
「残念だなあ。ぜひ一度、アカネさんの歌を聞いてみたかったです」
「私も、もっと歌っていたかったけど。そのかわり、今度この街に来たときには、必ず。約束する」
 アカネは申し訳なさそうに顔を伏せた。
「アカツキさんも今晩くらいはゆっくり休んだら良かったのに。……私のせいなのでしょうけれど」
 アカネがクシクスに付け狙われている、それはもはや明らかな事実。アカツキは近所を見回ってくると言って、工房の外へと出て行った。朝には、ろくに休みもしないままにアカネとともに旅へ、ということになるのだろう。
 フィスタとルーも万一を考え、それぞれ得物を枕元に置いて休むという。
 エスは、カヤナを連れてテトラの工房に一時避難。ラグも一緒に来ては、と勧められたものの、危険を承知でこの場に残ることを決めた。いざというときにお客さんの役に立てなくては、機工師の端くれなどと名乗る資格はないと考えたのだ。
 自分の出来ることを精一杯やる、と決意を新たにして、ラグは改めてアカネを見上げた。一つにまとめたアカネの長い髪の隙間から、右耳に揺れる金の光がラグの目に留まる。
 そういえば、やっと手に入った形見の品にも関わらず、アカネは未だ身につけていない。
「さっきの、着けてみないんですか?」
「え? ええ。なんだか、もったいなくて。……そうね。せっかく一揃いになったんですものね」
 アカツキから譲られた金の宝玉を懐から取り出すと、アカネはラグに示した。そして、もともと左耳につけていた黒いピアスを外すと、おもむろに金の石を身につける。
 二つの金の石がアカネの両耳に揺れた。
 その途端、視界は白い光に奪われた。
「きゃっ」
 ラグが思わず閉じた、そのまぶたの向こうでアカネの悲鳴が聞こえる。
「アカネさん!」
 名を叫んでも、返事はない。
 突き刺すような明るさに耐えながらうっすらと目を開くと、アカネの身体から――正確には、どうやら両耳に揺れる金の石から――まばゆい光がわき出るように現れて、廊下をまるで真昼のように煌々と照らしていた。すさまじい力が光の奔流となってアカネを覆い尽くしているのだ。魔力が目に見えることなど、それほどに強烈な力が目の前で飛び交うなど、通常の暮らしの中ではまず有り得ない。
 魔力のあまりの強さに酔ったせいでラグの意識は遠くなりかけたが、どうにか持ちこたえて足を踏ん張る。カヤナの魔法陣の時から練習を積んできたのが功を奏しているらしく、前よりは魔力に耐えられる体になっているようだ。
「アカネさん! アカネさん、大丈夫ですか!」
 ラグは、光の中に自分の手を突っ込んだ。
 目はまともに開けていられなかったが、手探りでアカネの輪郭を探し出し、その腕をぐいっと自分の方へと引き寄せた。しっかりと温もりが伝わってきて、とりあえずはほっとする。
 ラグが思い出したのは、アカネの育ての親が見たという光だった。だとしたら、目の前で起きたのは、スオウ将軍が残した何らかの魔術の発動に違いない。金の石二つを揃えることで術が開放されたのだ。
 光はやがて、アカネの両耳の宝玉に吸い込まれるように消えた。廊下には何事もなかったかのようにひやりとした薄暗さが戻る。
 光の前とただ一つ違っていたのは、アカネの表情だった。顔面蒼白のアカネをなんとか支え、ラグは懸命に声を掛けるが、彼女の返事はない。
 さっきまでの穏やかな顔と打って変わって、何かに驚いたように見開かれた目。わずかに開かれた唇は引きつり、身体は小刻みに震えている。
 やがてアカネは再び、のろのろと自分の左耳に触れた。
「……見えたの。昔のこと」
「昔?」
「燃える村が見えた。怖い人たちの中に、アカツキさんにとても良く似た人がいたわ」
 将軍がいったいどんな術を施していたのかはすでに見当が付いていたものの、その言葉でラグは悟る。呆けたような表情のまま、アカネは声も出さずに涙を流している。アカネは金の石に封じられていたであろう、十年も前の光景をすべて思い出してしまったのだ。
 背後からの乱暴な靴音に振り返ると、フィスタが息を切らしながら立っており、その後ろにはルーが悲しげな顔で続いている。フィスタが、呼吸を整えながら尋ねた。
「何が、あったのですか」
「私、すべて思い出しました」
 アカネのその一言で、彼らも全てを察したらしかった。フィスタは、外に出たアカツキを探してくるようにとルーに命じると、アカネを部屋へといざなう。ラグも慌ててそれに従った。


「私の石が鍵だったということか」
 戻って来たアカツキは、深いため息の後にアカネの耳元に目をやった。その耳にある金の石は以前と変わらないように見える。
「そのようです。こうなる前に気付くべきでした。私の不手際です」
 今になって冷静に考えればいかにもありそうなことだったからか、フィスタは深々と頭を下げた。アカツキはそれを止めようと、慌てて首を振る。
「謝ることはない。……父が、私に教えてくれればよかったのだ」
「それがスオウ将軍のお考えだったのでしょう。アカツキさんには、敢えて教えなかったんだと思います。もしそれを知っていたら、私に会うこと、迷ったのではないですか?」
 アカネは気丈に振る舞おうとしているのか、最後には笑みまで見せた。しばらくベッドで休んでいたおかげで、その顔色は先ほどに比べて格段に良くなっており、『光』以前の彼女と何ら変わりないように見える。
「確かに、記憶がないことに苦しんだ事もありましたけど、思い出してみて分かりました。……その頃の私には、重すぎました。こういう時がくるまで取り上げてくれたのは、スオウ将軍の優しさですよ。だから、アカツキさんも考えすぎないで」
 残された者には、逝った者の思いを手繰り寄せることしかできない。
 ラグはスオウ将軍の心に自分を重ねてみた。
 アカツキとアカネ、それぞれに託した石が再び揃うことで、記憶が回復する仕掛け。恐らくスオウは、少女だったアカネには重すぎたという過去も、二人が揃えば乗り越えられるものだと考えたのではないだろうか。
 いつか二人を引き合わせようと思っていたのだろうに、スオウにはその機会はついに訪れなかったのだ。
 アカツキは何か言いたげにしばらく考えていたが、結局は苦虫を噛みつぶしたような顔で「あなたはもっと父を責めてもいい」と呟いた。
「そして、私のことも責めていい。なぜなら、これからあなたに辛いことを頼むからだ」
 鋭い目が少し細められ、アカツキは何かを懇願するようにアカネを見つめる。
「もしできるなら、私も知りたい。……無理はしなくていいが、話してくれないか。あなた一人で重すぎるようなら一緒に背負いたい。今さらとは、思うのだが」
 アカネは頷くと、確かな口調で話し出した。
 村に火を放ったのはクシクスの軍服を着た男だったこと。
 しかし、最後までひとりで消火を続け、アカネを炎から連れ出してくれたのもクシクスの軍人――火を放った男とは別の、アカツキによく似た金色の目の男性だったこと。
 彼が幼いアカネを抱え、煙の中を駆け抜けたこと。そして、わざわざ村から離れた土地の民家に、アカネを引き受けてもらえるよう頼んでくれたこと。
「その人は、もし自分が知っていればこんな惨いことはさせなかったと、別れ際まで私に頭を下げ続けていました。『確かにあの村は能力者の集団で、ふとしたきっかけで国の脅威にもなり得る』と」
「能力者?」
「そう。風を自在に操り空を支配する力を持つ一族、風の民の末裔が、私です。……そうだったみたいです」
 アカネはアカツキの問いに、深く頷いた。
 アカツキが言っていたとおり、アカネは『風神』。ルーが見たという突風の謎もこれで解ける。
「『しかし軍人としての矜持以前に、人として見過ごすことができなかった、自分にも私と同じくらいの年頃の子供がいるから』と、その人は優しく笑っていました。……アカネと名付けてくれたのも、その人――スオウ将軍、ですよね?」
「いかにも、父が好みそうな名だ」
「『うちの息子と揃いの名前を送ろう。出来の悪い奴だが、もし、いつか出会ったなら――力になってやってくれたら、ありがたい』」
 アカツキは、一瞬だけ天を仰いだ。そして今度は瞳を閉じたまま俯き、独り言のように呟いた。
「捕らえられることを予想していたな」
「はい。おそらく」
 アカネは静かに答えた。
 真夜中の工房を沈黙が支配する。フィスタとルーは誰を見るともなく、遠くへと視線をやりながらただ待っているようだった。ラグもそれに倣い、身じろぎせずに時が過ぎるのを待った。

 水を打ったように静まりかえっていた場を再び動かしたのはアカネだった。
「アカツキさん。それでも、私と一緒に逃げてくれますか?」
 アカツキはアカネの真意を汲もうとしたのか、やっと顔を上げ、彼女へと視線を送った。いつにも増して真剣な表情は、アカツキの鋭い目に凄みさえ与えている。並の人間ならば射竦められてしまいそうな目を受け止めて、アカネはアカツキを見返していた。
「私、自分のことを知ってしまいました。私は間違いなく、追われる身です。きっとこれから先、あなたも危険な目に巻き込んでしまいます」
 アカネの言う過去の話が本当ならば――事実に違いない――彼女は真実クシクスのお尋ね者であり、今後ずっと追われ続けることになるだろう。その覚悟を問うているのだ。
「なおさら、放ってはおけなくなった。……明日――もう、今日になってしまったか。朝になったら、出るぞ」
 アカツキはふっと目を細めた。彼はすでに家族、そして兄としての表情を取り戻していた。
 これまで黙っていたフィスタが、おもむろに口を開いた。
「アカツキさん。夜回りはやめて、朝に備えて体を休めてください」
「俺たちが起きてるから。何かあったらすぐに知らせるよ。な、ラグ」
 ルーが頼もしく請け合うのに、ラグも首を縦に振った。
「ちゃんと寝て、元気を溜めてください」
「私たちに出来るお手伝いはそれくらいですが、いい寝床は提供できますよ」
 フィスタはまるで宿屋の主人のようなことを言い、笑顔でアカネとアカツキを促した。
「ラグは部屋へお二人を案内。ルーと私は一度下がって、万一に備えましょう」

 ラグは言いつけ通りに二人を部屋へと送った後、すぐに共用の大部屋に戻った。
 ルーはラグが見たことのない、武装した姿で現れた。軽そうだが固そうな金属製の胸当て、利き手には短剣という軽装備ではあるが、なんとも勇ましい格好だ。
 一方のフィスタも一度工房の自室へと消えると、夜着から作業用のつなぎに着替えてきた。普段、機械いじりをするときの服装で、ご丁寧にエプロンまで着けている。
 ルーが自分の剣を軽く叩いて、フィスタに尋ねた。
「先生、武器は?」
「今日は魔法だけでいこうと思いますよ」
 フィスタは見せつけるように、何も持っていない両手を弟子に向ける。手ぶら、どう見ても丸腰だ。
「肉体労働はよろしくお願いします」
「よく言うぜ。……先生は機工よりも魔法が恐いんだ。ほんとは、からくりや機械っていう『たが』があったほうがいいんだけどな」
「たが?」
「何か道具を使うなら、その性能以上のことはできないだろ? 先生の場合、魔法には上限がないから」
 聞き返したラグに、ルーはげんなりした顔で言った。
 フィスタは、機工はもちろん魔法もかなりの腕前だ。武器を持って戦うよりも、全力で魔法を使った方がフィスタは強いと、ルーは言いたいらしい。機工を使う武器が、逆に攻めの邪魔になる――魔法の出力を制限するような事態になるということか。途方もなくレベルが高い話に、ラグは目の前がくらくらした。
 大したことないですよ、とフィスタはルーの表情など無視して軽く流す。
「ラグはどうしますか?」
 ラグは、アカネを見送ることが自分に必要だと思っていた。ここまで逃げずに踏みとどまったのだから、最後まで付き合いたい。アカツキとアカネの逃避行はおそらく辛い旅になるだろう。何も出来なくとも、せめて彼らのために祈りたいと、心から思う。
「見届けたいです。……自分のために」
「その意気やよし、です。でも、できるかぎり自分の身を優先するように。まずいと思ったら、逃げるか隠れるかしてくださいね」
「どうしてもだめなら、助けてって叫べ。俺と先生が、絶対守ってやるから」
 ルーが口の端を引き、不敵に笑った。おそらく根拠はないだろうに、妙な自信に溢れたその顔が今はありがたい。
 ――父さんも、守ってやるって言ったっけ。
 ラグが記憶の底から汲み上げたのは、そう言ってやはり笑っていた父の顔と、頭をなでてくれた手だった。知らぬ間に、フィスタやルーと父の面影が違和感なく重なるようになっていたことに、ラグは気付く。この人たちはすでに私の家族なんだ、と。
「私も、みんなを守れるようになりたいです」
 思わず口にした言葉に、フィスタとルーは顔を見合わせて微笑んでいた。