みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【8】

 静かに更けていた夜は、何かがきしむ音で破られた。
 アカネの部屋の外、廊下で待機していたラグは聞き慣れない音に思わず椅子から立ち上がっていた。
 肩に、覚えのある手が触れる。肩越しに、ルーが目だけでラグに訴えていた。
(……騒ぐなよ)
 ラグは無言で頷き、元の椅子へと戻る。
 一方、ルーはラグの隣の椅子から離れ、アカネの部屋のドアへと近づいて耳を澄ます。ギシギシという異音は、すぐに乱暴に叩く音へと変化した。ルーが耳をそばだてたままでラグに状況を伝える。
「窓を破ろうとしてるな」
 部屋の中がそうなっているのかは分からないが、アカネ自身が窓に取り付いているとは考えにくい。だとしたら、何者かが外から狼藉をはたらいているのだろうか。とにもかくにも、確認してみないことには何も進まない。
「ねえ、アカネさんは大丈夫かな」
「開けてみるか」
 ルーがそう言ってノブに手をかけようとしたちょうどその時、中からドアが開いた。
 味方か、それとも敵か――硬直したラグにとっては幸いなことに、出てきたのはアカネだった。すでに身支度を済ませている。もしかしたら、部屋には入ったものの眠ってはいなかったのかもしれない、とラグは思った。
 アカネは強ばった表情で二人に告げる。
「窓を叩き割るつもりです」
「昨日会った奴らだろうけど、よくここを突き止めてきたな。……こんだけ派手な音なら、知らせなくたって先生やアカツキさんもすぐ来るさ。多分、騒ぎを聞きつけて自警団も来るだろ」
 ルーはアカネを廊下に出し、窓から遠ざけた。そして、自らは部屋の中へと進んでいく。
 ベッドの脇に、木製の大きな窓がある。それが、ガン、ガンと大きな音とともにびりびりと振動していた。すでに忍んでという段階は越え、堂々と進入するという方針に切り替わったようだった。
 後に続いていたラグを振り返り、ルーは囁く。
「じきに破れるぞ。……気を付けとけ」
「ルーも」
「俺は、修羅場踏んでるから」
 ルーは落ち着き払ってそう言った。確かに、彼の態度は一見して場慣れしていると分かるものだが、この仕事はそんなに物騒なものなのだろうか。戦闘もこなす機工師なんて、聞いたこともない。
 相変わらずの騒音に、いつの間にか何かが裂けるような音が加わっていた。そして、ひときわ大きな、めりっ、という音――その瞬間、木製の窓の向こうから木槌の先が飛び出してきた。
 ――窓が、割れた!
 ラグは声を上げそうになり、慌てて自分の口を押さえた。
 木槌は、破れた窓に突き刺さったような格好で止まっている。すぐにも穴は広げられ、敵がなだれ込んでくるだろう。
 緊張して身構えるラグの前に立ったルーは、「魔法で先に仕掛けてみる」と呟いた。
「ここから入ってくるなら、きっと一度にたくさんは来ない。一人ずつなら俺でも何とかできるかもしれねえ」
 ルーは口の右端だけを上げ、にやりと笑った。そしてすぐに両の手の指を絡ませて魔力を増幅させるための印を結び、『詠唱』を始める。
「……水の眷属。これを聞いているんなら、あいつらをぶっ飛ばす力を俺に貸してくれ――」
 魔法を使うときには何らかの言葉を唱えて魔力と集中力を高めるのが定石。詠唱は基本的にどんな言葉でもいいとはされてはいるが、ルーらしい自由さだ。
 その間にも木槌は窓を叩き、ほどなく、大きな音とともに窓が破れた。小さく開いた隙間から見えるのは、夜の闇と、それよりも黒い複数の人影。
 割れた窓から複数の手が入り込み、板を剥がして穴を広げてゆく。それはすぐに人が通れるほどの大きさになった。
「来るぞ!」
 ルーが詠唱を中断して叫んだ。
 最初の一人が穴を通り、侵入してきた。黒い装束に覆面姿の男。背にはアカツキのものによく似た刀を負っている。
 男は窓からベッドの上に飛び下り、ルーとラグの方へと向き直った。背中の刀に手が伸びる――
「出ろ! 水の塊!」
 ルーの声――おそらくこれも『詠唱』の一部なのだろう――とともに、何もなかった空間から突如として『水』が現れた。それも、尋常な量ではない。部屋を埋め尽くすかと思えるほど大量の水、それが意志を持っているかのように空中に留まっている。
「行っけえ!」
 再びのルーの声で、浮かんでいた水の塊は勢いよく流れ出し、速度を増しながら敵へと向かっていく。あたかも雨の後の激流のように荒れながら、しかし剣の鋭い突きのように、まっすぐに。
 男は武器を抜くこともできず、吹き飛ばされて壁に激突した。そして、戦意を喪失したのか気を失ったのか、床に落ちたまま動かなくなった。
「すごい、ルー!」
 ルーはラグの声に「褒めても何も出ねえぞ」と言った。
 以前、ルーは魔法は苦手だと言っていたが、これだけの力があれば機工師としては充分やっていけそうだ。それでもなお修行を続けているのは、もっと腕を磨きたいからなのだろう。
 まだやや息が荒いルーだったが、窓の方をちらりと見ると今度は武器を取った。
「ここまで水浸しになれば、火をかけられても大丈夫だろ。あとは剣を使うぜ」
「分かった。私も、出来るだけやってみる」
「ほどよく、な」
 建物に火をつけられたときのことまで考えて水を喚んだらしい。大ざっぱかと思えば、妙に気が回る一面もあるのがこの兄弟子の持ち味だ。その気遣いはここ数日、遺憾なく発揮されている。
 すでに二人目、そして三人目の兵――ラグは直感的に兵だと思った――が、部屋に入り込んでいた。二人まとめて引き受けることにしたらしく、ルーは彼らの前に身を踊らせて注意を引いている。
 やらないよりはまし。やらなきゃ、私じゃない誰かまで傷つく――ラグは、心の中で誓った。
 そして、ラグ自身も詠唱を始めた。右手のみで印を結び、小声で呪文を呟いていく。
 まだ機工のからくりを使いこなせるほどの腕はないラグは、魔法で戦おうと決めていた。左腕にはすでに『壁』と呼ばれる術を施してきていた。腕に魔法陣を書きこみ、周囲に不可視の障壁を作り出す――要は、左腕を強化して盾にする技だ。
 ラグはそもそも人を害する魔法をほとんど知らなかった。使えるのはせいぜい『壁』と、いくつかの攻撃魔法程度だが、魔法の腕を買われて奨学生となった身、やればできないことはないはず。
「ラグ! 一人、そっちに!」
 四人目の男がルーの脇を抜け、ラグに詰め寄ってきていた。男は走りながら抜刀し、十分に間合いが詰まったところでラグめがけて振り下ろす。
 鋭く風を切る音。
 ラグが頭上にかかげた左腕に刀が振り下ろされた。攻撃を受け切るため強化していたとはいえ、腕が折れるのではないかと思うほどの衝撃が左の上腕から全身に伝わってくる。実際、踏ん張っていた足がずり下がったが、どうにか耐えた。
 男がさらに斬りつけてきた。鈍い音と同時に、脳を揺さぶるような震えがラグに伝わる。
 ラグの腕に止められた刃はきぃん、という金属音とともに真ん中から折れて床を滑っていった。兵士が呆気に取られて動きを止めた瞬間、ラグは右手を敵の腹へと突きつけ、魔法の力を秘めた光を撃ち込む。
 敵兵は床を転がるように飛び、壁にぶつかって止まった。
 ――私にもできた。
 息をつく間もなく、次の敵兵が目の前に立っていた。横に薙いだ切っ先を、ラグは三たび左腕で受け切った。衝撃で頭がぐらぐらする。
 と、そこでラグは服の袖がざっくりと裂けていることに気が付いた。
 すべての斬撃を左腕に受けていたのだから当然といえば当然だったが、ラグの顔からは血の気が引く。
 これまでひた隠しにしてきた肌――昔の傷が残る左腕が露出し、肩では浅葱色の石が鈍く光る。引き吊れた傷跡は孤児になった際のいざこざで負った怪我。魔力の込められた緑色の石は、治療の際に埋め込まれたものだ。追ってきた兵の攻撃を受けて肩口からちぎれかけた腕を、命の恩人が繋いでくれたのだ。
 新たな傷を負ったわけではないが、それはラグにとって刀傷よりも痛い事実だった。これを人に見られることは、肌だけでなく心までもむき出しにしているようなものだった。
「あ――」
 ラグはかばうように左腕を抱え、しゃがみ込んだ。
 敵兵の気合い声が轟き、刃が再びラグに向かってくる。
 ――斬られる。
 思わず目を閉じたが、予想していたような痛みはなかった。代わりに、すさまじい突風がラグの横を吹き抜け、敵の体を吹き飛ばしていった。男は破れた窓に叩きつけられ、窓から侵入を試みていた後続の男たちもろとも部屋の外へと落ちる。

「もう、守られてばかりはいやです。守られてばかりでは、守れないわ」

 歌うように、しかし力強く言ったのはアカネだった。一旦は部屋の外に出たはずのアカネが、ルーとともに立っている。
「思い出したのは村の滅びだけではないわ。この力の使い方も。……私の心に手をさしのべてくれて、追われていると知ってなお匿ってくれて、ありがとう。今ならご恩を返せる自信があるの」
 そう、いたずらっぽく笑う。
 戦いの場にあっても、彼女はやはり歌姫だった。その声が響くと、萎えていた心がなぜか再び奮い立つ。
「助かりました、アカネさん」
 アカネは「間に合ってよかった」とにっこりと笑った。
 周囲を見回すと、ルーと目が合った。彼の足下には二人の男がのびている。
 ルーはラグの敗れた袖に気付くなり、ものすごい勢いでこちらへ駆けてきた。ラグの腕をそっと持ち上げ、顔を近づけて傷跡を確認する。
「この、石は? いや、それよりこの傷は?」
「これは昔の。両親が亡くなったときに、命を救ってもら――」
 なぜか、自然に過去のことが口を衝いて出た。しかし、ルーはそれをかき消すように「あー!」と大声で制す。
「そういうのが聞きたいわけじゃない。ほんとは気になるけど聞かねえよ! 今、痛くないなら――いいんだ」
 ルーは自分の頭に巻いていた布を解き、「それ、巻いとけ」とラグの方に投げた。
「ありがとう」
「俺の自己満足。気になって集中できねえから。……だから、恩に着るなよ」
 そんな会話もつかの間のことで、ルーはすぐさま縄を取り出し、倒れている兵士たちを縛り上げにかかる。
 言われたとおりに布で傷跡を隠しながら、ラグはしばし思いを巡らせた。アカネの声、そしてルーの言葉を聞いてから、ラグの中のこだわり――過去は晒せない、という思いこみ――はなぜだか希薄になっていた。過去は変えられないけれど、過去と闘うことはできる。勝ってアカネのように笑いたい、とラグは思った。