みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【9】

 いっとき引いていた敵が再び部屋に入り込んできたちょうどその時、廊下から部屋へと駆けてくる足音が響いた。
 まず顔を見せたのは、こちらもアカネ同様に身支度が済み、旅装のアカツキ。
「無事ですか!」
 そして、聞き慣れた少し甲高い声。安堵のあまり、ラグの全身からはふっと力が抜けた。それくらいに頼りにしている人の声だった。
「遅い!」
 ルーのすかさずの文句に、師匠は笑顔で答えた。
「ご期待通りにはいかないものです。……すみませんでしたねえ。ここから挽回させてください」
「挽回できるものとできねえものがあるだろうが。あと少し早ければ」
 フィスタは苛立ちに満ちたルーの顔を改めて見た。ラグの傷跡を覆う布とルーの乱れた髪の毛との間を、フィスタの視線が行き来する。
「確かに少し遅かったのかもしれないですね」
 フィスタの言葉はいつも通り緩くて柔らかかったが、その表情はいたって真剣だった。
 フィスタは、ラグの過去をすでに知っている。入門前、ラグは長い手紙をまだ見ぬ師匠に送った。ほどなく、フィスタからは『入門に支障なし』という短い返事とリトリアージュまでの旅費が送られてきた。彼はラグの事情を承知で手許に置いてくれ、癒しとともに少しだけ高い山も与えてくれる。そのおかげで、ラグは機工師に必要な技術だけではなく、自分の『心』のあしらい方も少しずつ身につけることができていた。
「ルーとアカネさんに助けてもらいました。……先生、私は大丈夫です」
「そう言ってくれるものと思っていましたよ」
 やけに得意げなフィスタにつられ、ラグも目を輝かせる。
「はい!」
「ちっ」
 ルーはといえば舌打ちを一つ。もっとも、フィスタとルーのやりとりというのは大抵は軽口混じりなので――主にルーの方が一方的に、だが――普段通りではある。
「……敵が勢揃いするのを待つ、か」
 低い声はアカツキ。
 彼の言うとおり、クシクス人らしい兵たちは再び部屋に入り込み、間合いを計っているような状況だった。
 アカツキはすでに刀を抜いている。狭い部屋の中でも長剣を使える自信があるのだろう。アカネと隣り合い、互いの背を守るように構えている。
「余裕だな。相手の数が多くなっては困るだろう」
「困るのは向こうですよ。むしろ増えてもらった方が、一度に片付けられて手間が省けるんですが。……さて、ではそろそろ始めましょうか」
 何を、とラグが尋ねる前に、フィスタは小声で弟子二人に告げた。
「今回の仕事は、お客様二人をここから無事に逃がすこと。報酬はアカネさんの歌声――ただし、後払いです」
 そして返事を待たず、フィスタは敵の目と鼻の先まで大股で歩んでいった。あまりに堂々とした態度に、敵が戸惑い、出方を伺っているのが分かる。
 その隙を捉え、フィスタはふっと大きく息を吸い込んだ。

「私はこの工房の主、フィスタ=リューズ! 貴様ら、ここをリトリアージュ王室付きと知っての狼藉か!」

 ラグが聞いたこともないような、荒々しい語気だった。
 フィスタが笑顔の下に激情を隠していることをラグは知っていた。カヤナがこの工房にやってきたとき、彼が怒気をみなぎらせる姿も見ていた。そんな予備知識があってなお、こちらが気圧されてしまいそうな激しさだ。
「先生、ちょっと格好いいだろう」
「あ――う、うん」
「お前も慣れとけ。多分、また見る機会があるぜ」
 フィスタの啖呵ににやりとしていたのはただ一人、ルーだけだった。
 正直、ラグの中では格好いいよりも驚きの方が先に立っていた。このフィスタを見ても平静でいられるのだから、修羅場に慣れているというルーの言葉も今なら何となく分かる。フィスタとルー、こうして二人で乗り越えてきた苦難の山がたくさんあったのだろう。
 そしてラグ自身も今、そこに加わっている。こんな状況でなければ快哉の声を上げるところだ。
「東の国の者ども。この工房に害をなすことは、大国リトリアージュに牙をむくこと。それを知ってなお向かって来るというなら、僭越ながら大陸一の機工師の名を戴く私がお相手しよう。……売られた喧嘩は高く買うが、いいんだな」
 フィスタの宣戦布告は、ラグの背筋にぞくりと震えが走るほどの脅しだった。眼鏡の奥から相手に投げる視線はひどく冷たい。
 敵兵たちが顔を見合わせ、揃って声を上げた。ラグが聞き慣れない言葉に首を傾げていると、アカツキが訳してくれた。
「『我が国に忠誠を』と言っている」
「そうですか。気は進みませんが仕方がない」
 フィスタは言葉とは裏腹に口の端を少しだけ上げた。
 直立した格好のままゆっくりと右手を挙げ、そして袈裟がけるように何気なく振り下ろす。
 ひゅっ、という空を切る音。
 次の瞬間には、兵士たち三人ほどが吹っ飛んで壁にぶち当たり、妙な声を上げながら床へと崩れ落ちていた。ちょうど、さっきアカネが見せた風によく似ていたが――しかしこれは魔法だ。フィスタだからできる、詠唱なしで放つ魔法。その魔力の残滓がラグの古傷をぴりりと刺激したが、嫌な感覚ではない。
 フィスタは息も乱さずに、押し殺した声で言う。
「これ以上建物が壊れないように、これでも手加減しているんです。それに感謝すべきだ。……許しませんよ。うちの大事な弟子を傷つけて、お客様に恐ろしい思いをさせて」
 右手をもう一振り。
 さっきと同じように強烈な風が巻き起こり、数人が部屋の中にあったものもろとも吹き飛んでいった。ガシャン、となにかが割れる音ともに、人間の方も壁が目に見えてへこむほどの勢いで叩き付けられ、倒れ伏す。
 あっという間に、かなりの人数が戦えない状態へと追い込まれていた。その圧倒的な強さに、アカネが苦笑いしながら戦況を見守っている。
「フィスタさんも風を操れるのね。私の出る幕は、ありませんね」
「いや。風を使うことに関してだけなら、きっとアカネさんの力の方が強いはずだぜ。俺は見たから分かる。……先生はわざと風を起こしてんだ。もしアカネさんが風を呼んだとしても、後に残った自分が『魔法を使ったんだ』って言い訳できるようにな」
 アカネとアカツキが、はっと息をのむ。
 ルーはアカツキの耳元に顔を寄せ、早口で言った。
「時間を稼いでるうちに二人は少しでも遠くに逃げろ。あいつらに捕まるのなんて論外だけど、自警団に見つかっても面倒だぜ」
「いや、しかし――あなた方をおいて逃げることなど」
「しかしじゃねえよ。あんた、アカネさんを護るんだろ? ……俺は思うんだ。今は小さな光だけど、もしかしたらあんたらがいつかクシクスを揺さぶってくれるかもしれねえ。あの国が、どれほど非道にのし上がってきたのかを知ってる二人なら――ってな」
 ルーはラグをちらりと見て、ふと表情を緩める。吊り気味の目が、少しだけ柔らかさを帯びた。
 ラグに対しては何も言わなかったものの、言外に『お前の分も』という含みがあった。ルーは頭がよく回る。断片的な会話やさっき晒した傷跡から、ラグが孤児になった事情を何となく察したのかもしれない。
 ルーの言葉に、アカネは眉をしかめる。
「不義理なことはできません。それに、皆さんの無事を確かめてからでないと後ろ髪を引かれてしまうわ」
 まだ態度を決めかねているらしいアカネとアカツキの気持ちも、ラグだって分からないわけではない。
 しかし万一、アカネの記憶が戻ったことがクシクスに知れたら――と、ラグは気をもんでいた。
 スオウ将軍を嵌めた策を知るアカネ。強大な『風』の力を自由に使いこなせるようになったアカネ。今相手にしている連中が失敗しても、次の追っ手が放たれるのは目に見えている。
 ならば、少しでも早くここを発つに越したことはないのではないか、と。
 自分の後押しなんかで二人を動かすことができるのか、覚束ないところだ。だからこそ、ラグは声を張る。
「スオウ将軍が救った命、私も護りたい。私、アカネさんのことを他人とは思えなかったし、私にない強さを持ってるアカネさんが大好きになりました。だから、危険を承知でこの場に残るなんてやめてください。また必ず会いたいから、今はすぐにでもお別れしたほうがいいって思います。……心配しないで。私たちは死なないから」
 アカネが目を見開いた。
「私の両親は私を庇って亡くなりました。スオウ将軍も、形は違うけれど――。でも、命をかけてとか、そんなの私は嫌です。それに、いつかアカネさんの歌を聴きたいから、死んだりなんかできません」
「リトリアージュは異常なほど機工師の庇護に篤いんでね。危険が迫ったら国を挙げて守ってくれるし、なにせ先生みたいな化け物もいるし。だから、俺たちのことなんか気にすんな」
 ルーは、並んで立つアカネとアカツキの肩をそれぞれ掴んだ。力を込めて、二人の体をくるりとドアの方へ回し、どんと背中を押す。アカネが、その勢いに負けて前へ何歩かのめった。
「行け!」
「……恩に着る」
 そう言ったアカツキは微動だにせず、振り返りもしなかった。剣を鞘に収め、目だけでアカネを促す。アカネは「分かりました」と静かに頷いた。
「でも、またいつか戻ってくるわ。歌う約束をしたものね」
 にっこりと微笑むアカネには悲壮な雰囲気など微塵もない。ラグもアカネに倣い、明るい表情で小指を立てる。アカネの指がそれに絡んで、軽く揺れた。さっきラグとアカネが廊下で交わした何気ない会話は今、生きて逃げ切り、再会するという約束に変わっていた。
「アカネさん、これを!」
 フィスタが、何かをぽんとアカネに放った。アカネが上手く受け取ったそれは、手のひら大と言うにはちょっと小さい、ボールのような金属の塊。
「鳥型の通信機です。空に向けて投げれば、翼が出ます。私が居るところへ戻って無事を知らせますから、逃げ切ったと思ったら空に放ってください。……気をつけて」
「ありがとう。皆さんのこと、絶対に忘れません」
 アカネは、吹っ切るように踵を返す。それを見届けたアカツキが、こちらに軽く頭を下げ、背を向ける。二人はそのまま部屋から駆け去って行った。
「まだ終わっていませんよ! こいつらを片っ端から縛り上げてください。できたら首以外の部分を、容赦なくギリギリと締め上げて、ね。覆面をしているやつは剥いで顔を晒してやりなさい」
 別れを惜しむ暇もない。
 師匠が、いつもの間延びした調子で物騒なことをせがんでいる。フィスタは汗一つかかず、倒れた男たち十数人の真ん中でにこやかに笑っていた。
 遠くから、重い足音がする。ようやく自警団が来たのだ、とラグはため息をついた。

 侵入者たちを自警団に引き渡したころには、空は白み始めていた。
 フィスタをはじめ、工房の三人はそれぞれ簡単に事情を聞かれたものの、自警団側には『仕事の依頼人を工房に泊めたところ得体の知れない連中が窓を壊して乱入してきたため、依頼人は驚いて逃げ出してしまった』という説明で納得してもらい、とりあえず帰ってもらった。捕まった男たちのほうも、これからじっくり絞られることだろう。クシクスの内情がどれだけ明らかになるのかは、分からないけれど。
 窓の修理と片付けを言いつかったラグは部屋の外に回ろうと、ほの明るい夜明けの空のもとへ歩み出た。
 二人は無事に逃げているだろうか、と不安がラグの頭をよぎったが、美しい朝焼けを見てすぐに打ち消した。またいつか、という約束を違えるようなアカネではないはずだし、アカツキはそのアカネを守りきることに尽くすはずだ。アカツキはアカネのいちばんの光となり、導いてくれるだろう。そしてアカネは、アカツキに夕闇のような安らぎをもたらすだろう。
「おいラグ! 危ねえから一人でやるな。ちょっと待ってろ」
「本当なら、ルーが先に行かなくては。いちおう、先輩なんですからね」
「うるせえなあ。いちおう、って何だよ」
 工房の中からは、ルー、そしてフィスタの声がしていた。
「暁と茜、かあ」
 ラグは、思わず独り言を漏らす。
 今は、自分にも暁と茜――ルーとフィスタ――がいる。ゆったりと満たされる心をそっとしまい込むと、ラグは仕事に取りかかった。


 フィスタが託した通信機が戻ってきたのは百日ほど後の話で、鳥型からくりの足には『二人とも無事クシクス国内に入った』という短い手紙が結びつけられていた。

 ラグはさらにしばらく後、クシクスの軍事政権が倒れたという知らせとともに、新しいクシクスのリーダーとしてアカツキとアカネの名を再び聞くこととなる。後にクシクス史に名を残す、『夕焼けと朝焼け』の時代が幕を開けた瞬間だった。
 でも、それはまた別のお話。