みどりのしずく

裏・夕焼けと朝焼け【1】

「ルー、いま時間あるかな」
 一日の仕事が終わった夕方。自室に引っ込もうとした俺は、ラグに呼び止められた。
 薄暗い廊下で、ラグの顔はいつもよりも青白く見える。数日前、アカネとアカツキを送り出す前後にはいろいろと精神的に参っていたラグ。顔色が悪くても心配こそすれ、驚きはしない。
「お前、具合はもういいのか?」
「うん。もともとそんなに体調が悪かった訳じゃないし」
「……なら、いいけどよ」
 俺はラグへと近寄り、腰をかがめて彼女の顔を覗き込んだ。白く見えるのは夜闇のせいなのか、ラグの血色が悪いのか、どちらだろうか。いずれにしろ、表情だけを見れば穏やかだ。
「改まって、何だ」
「聞いてほしいことがあって」
 ぴんと来た。しかし、極力顔に出さぬように、やんわりと微笑んだ――つもりだ。これから何か重大なことを話そうとしているであろうラグの緊張を思えば、これ以上彼女に気を遣わせるのは嫌だった。
「別に構わねえけど。付き合うぜ」


「どうぞ」
 ラグが自室の扉を開ける。ドアがすんなりと開いたことに、俺は違和感を覚えた。以前はしっかりと施錠されていて、ノックをしないと開けてはくれなかったはずだ。思わずドアに目をやる俺に、ラグは「鍵?」と尋ねる。
「なんかさ、お前の部屋っていつもドアが閉まってるって感じだったけど」
「もう鍵はやめたの。傷を見られるのが嫌だっただけだから」
「お前、一応は年頃の女だろ? 例えば先生が、着替え中にうっかり開けたりしたらどうするつもりだよ」
「ノックしてくれればいいじゃない。それに、先生はそんな失敗しないよ」
 ルーならやりかねないけどね、とラグは屈託なく笑った。
 アカネとアカツキを逃がすためのどさくさで晒されたラグの古傷は、今は完治しているとはいえずいぶんと深手だった。
 過去を詮索するようなことはしないと決めていたが、ラグが北の国で小さい頃に負った怪我ならば、それは恐らくクシクスがらみだろうと予想はできる。幼かったラグにあそこまでの傷を残すなんて――つかの間そう思ったが、もしも戦争のさなかというならば、それもあるかもしれない。非常時にいちばん理不尽な目に遭うのは子供たちだと、カヤナ、アカツキやアカネを見ていてよく分かったからだ。
 そして、肩に埋め込まれていた浅葱色の貴石。あれを目にしたときの何ともいえぬ胸騒ぎは忘れられない。懐かしく惹かれるようでもあり、一方では目を逸らしたくなる嫌悪を感じるようでもあり、とても一言では言い表せない心模様。それは今も少なからず続いている。
 俺はベッドサイドの小さな椅子に腰掛けた。ラグはベッドにちょこんと座り、なんだか照れくさそうに口を開いた。
「私の昔のこと、先生にはだいたい伝えてあるんだけど、ルーにはまだだよね」
「ああ」
「言いにくい事情があって。でも、もしよかったらルーにも聞いておいてもらいたいと思うんだ。気分のいい話じゃないから、よかったら、なんだけど」
 無防備に人と交わることができるラグが隠し通してきた秘密。断じて好奇心からなどではなく、ただ素朴に、何だろうと不思議に思う。俺は素直に口にした。
「話したいなら、聞くのは構わねえけど。『事情』って?」
「……私も、もとはお尋ね者だったの」
「お前が? お尋ね者?」
 眉をしかめ、ラグは頷いた。
「今は、違うと思うんだけど。私、一度死んだことになってるはずだから」
 この生真面目で気の優しい少女が、なぜ追われる身にならなくてはいけなかったのか。『一度死んだことになっている』とはどういうことか。あの怪我が関わっているのだろうか。孤児となった原因は、いったい何だったのか。
 謎は増えただけで、いっこうに解決しない。俺は思わず首を傾げ、うなり声を上げていた。
「いったい、どういうことだ?」
「長くなると思うんだけど、順を追って――」
 ラグはそう前置きし、話し出した。


「私が生まれたところは、寒さが厳しいところでね。緑が萌えるのはわずかな夏の間だけ。暖かいうちに採れたもので冬を食いつなぐ、そんな生活だった」

 ラグが生まれたのは、通称『北の国』。雪に覆われている時期が長く産業に乏しい、お世辞にも裕福とは言えない小国だ。クシクスとのいざこざがある前は、短い夏を最大限に利用した遊牧を中心とした暮らしが主流だった。未だクシクスと交戦中であり、国力は疲弊。今は以前よりもさらに苦しく厳しい暮らしを強いられているらしい。
 一方のクシクスはリトリアージュ北東、大陸の端に位置する軍事国家だ。近頃は領土を広げるべく、活発に動いている。そのとばっちりを食っているのが、『北の国』と、アカネのソラルセンだった。
 ソラルセンはリトリアージュの東にあり、リトリアージュとクシクスの間に挟まれるようにしてある小国だ。アカネが住んでいた村の辺りがいちばん東寄り、つまりクシクス側にあたる。その東側の地域の一部――アカネのふるさとを含む――をクシクスに差し出すことを条件に現在は停戦しているが、こちらも北の国同様弱っている。
 ちなみに、北の国、ソラルセンのどちらとも国境を接するのがリトリアージュ王国。大陸随一の豊かさは代々の国王が長命であることにより治世が安定するためだ。北や東のきな臭い動きは、あくまで静観――見て見ぬふりをしている。
 ――と、俺は頭の中で反芻した。
 世界を知る機会はいくらでもあったはずが、あまりに無知だった自分。それを情けなく思い、アカネの件以来、これまであまり詳しくなかった国境を接する国々について情報を集めて頭に入れている。この程度把握できていれば、話について行けるだろうか。

 暮らしやすいとはとても言い難い国。それでも、両親と自分、家族三人で幸せに暮らしていた日々は確かにあったのだと、ラグは言う。
「私の父は機工師だったの。先生ほどではないけど、北の国ではかなり腕がいい方なんだって母が自慢してたのを覚えてる。小さな機工のお店を構えて、母は父の助手をしててね。北では機工はあまり盛んではないけれど、それなりに生計は立てられていたみたい」
「へえ。じゃあお前、二代目なのか」
「一応ね」
 ラグは心なしか誇らしげに言った。
 俺は口を出してから気付いたのだが、恐らくラグと父親との別れは跡を継ぐには早すぎる時期だっただろう。だから『一応』なのだ。では、ラグはなぜ機工師を目指すことにしたのだろうか。
 少し間を置いたあと、ラグは絶望的な言葉を淡々と口にした。
「それがある日、クシクスが攻めてきて。戦争は決め手を欠いて長引く一方でね。国の中は、どんどん荒れていったんだ。戦火が激しくなるにつれ、近隣の国々へと逃げる人たち、亡くなる人たちも増えて、人材不足は深刻になっていって。そしてやがて、父にも軍からお呼びがかかったの」
「なんで、機工師を軍に?」
「兵器の設計者、強力な魔法兵器を作ることができる魔術師として。父に声がかかったとき、すでに何人もの機工師が武器の開発に当たってたみたい」
「機工はそんなことに使うもんじゃねえだろ」
 俺は、思わず声を荒らげた。
 先生が、口癖のように言う言葉がある。『機工は、幸せのために使われなくてはならない』。
 しかし皮肉にも、ラグの父親の力はそれとは正反対の方向に生かされようとしていた。だから彼女は、アカツキとアカネの話――「大きな戦力になる」という一言――に、あんなにも過剰に反応したのだ。
 ここリトリアージュは国を挙げて機工師を後押しする政策を打ち出しているために、その数は他の国とは比較にならないほど多い。生まれも育ちもリトリアージュである俺にとっては、機工師だというだけで戦争にかり出されるなど、ラグには悪いが理解が及ばない世界だった。
 しかし、この俺の貧しい想像力でも、思い浮かべることはできるし、学ぶこともできる。知らなくてはならない、知るべきだ――俺は心の底から思っていた。
 ならば今は、静かに耳を傾ける。俺にできるのは、それだけだ。
「私も、そう思うよ。うちの両親は、きっともっともっと強く、思ってたはずだしね。……でも、そういう国だったの。そういう時代だったの」
 ラグは眉を寄せ、大きなため息を一つ吐いた。その瞬間だけ、彼女はとても歳を取ったように俺には見えた。普段見せる無邪気な笑顔とは違い、年齢に見合わないほどの憂いを重ねてきた、悲しみの表情――に思えてならなかったのだ。
「父は自分の技術を戦争のために使うべきなのか、ずっとずっと悩んでた。そのころの父は顔色も悪くて、いつも何か考え込んでたのを覚えてるな。そのうちにね、母も機工が分かる人材として目を付けられて。そして私も、人より強い魔力の持ち主だとされて、結局は家族全員が軍に呼び出しを受けた。けれど、父はそれでも応じなかったの。思い詰めた両親は、私を連れて国を脱出しようと決めた」
 ラグは、ぽつりと「だから、お尋ね者――なわけ」と零した。
 『国の命令に反した機工師と、その家族』として追われたのだ。ラグとその母への命令は、実際はラグの父に対しての人質だ。家族までも巻き込まれ、ラグの父親はどんな気持ちだっただろう。
「北の冬は痛いほど寒いんだけど、その時は父と母が暖かく守ってくれて、寒さなんか全然感じなくて、逃げているはずなのにすごく幸せだった。……でも、あと一息でリトリアージュとの国境、というところまできて、追ってきた『北』の兵士に見つかってしまって」
 ぴたりと声が止んだ。
 ここから先が、過去の核心に迫る部分なのだろう。俺には、やはり想像することしかできない。そしてその想像は最悪の結論で停止する。
 ラグは孤児だ。つまりそれは、ラグの語る昔話が両親の『死』で幕を閉じるということ。おそらくはそれを口に出せずに、ラグは無言で逡巡している。
 俺が考えるに、追っ手に下された命令はおそらく、アカネのときと同様に『国の外へやるくらいなら、始末してしまえ』。いくら卓越した力を持ち、惜しい人材だとしても、言いなりにならない者は危険分子になる前に消してしまうのがいちばん安心で、確実なやり方だ。
 できれば、聞きたくはなかった。俺はラグの願いに応え、ラグと苦しんでもいいと決意して話を聞き始めたはずなのに――。
 ――根性なしめ!
 俺は胸の中で自分を怒鳴りつけた。そしてただじっとラグの口元を見つめ、待つことにした。

 やがて、湯が水にまで冷めるくらいの時間ののち、ラグは口ごもりながらも言った。
「父と母は私の目の前で――二人とも、利き腕を――落とされてから、とどめを刺された」
 初めて、ラグの声が大きく揺れた。

 ラグは嗚咽を飲み込み、泣き声など微塵も出さない。まだ込み入った事情を知らないであろうエスやカヤナに聞こえぬように、必死に抑えているのだろう。
 俺が座っていた椅子が、蹴り倒されたように転がる。
 立ち上がったものの何をしていいか分からず、俺はひざまづいてラグの手を取った。彼女の震える手を押さえつけるように握りしめると、よく使う指のところどころ、皮が固くなっているのが分かった。修行を始めてからしばらく経ち、機工師らしい手になりつつあるのだ。
 ――腕は、指は、職人の誇り。それを奪い、命まで奪うなんて、惨いことを。
 壁を蹴飛ばしたい衝動に駆られながら、俺は俺自身も涙をこらえていることに気付いた。
 これはきっと、俺にとっても試練。
 悲しいのか腹が立っているのか自分でもよく分からないが、ラグの語る過去に心を動かされている。先生がよく言う『心に響く』、それが今、俺に訪れていた。訪れるなんて呑気なものではなく、扉を無理矢理にこじ開けて嵐が襲い、心の中に風が吹き荒れている。
 先生はいつもこの嵐を乗り越えてなお、自然体で仕事をするのだ。他人の幸せのために尽くしたいという一心で――。
「……最後まで話すか? それとも」
 激しくかぶりを振るラグ。その勢いであふれた涙が、頬に伝った。
「過去と闘うんだ。アカネさんみたいになるって、決めたんだから」
「じゃあ俺も一緒に闘っていいか?」
「――っ」
 きつく噛み締めたラグの唇から、こらえきれなかった噎び泣きがわずかながら漏れた。
 が、彼女の涙はそこまでだった。何かを振り切るように、服の袖で顔を拭う。
「嬉しいな。何だか、頑張れる気がしてきたよ」
 ラグは荒い吐息を力ずくでねじ伏せたようだった。うれしいうれしいと何度も繰り返す表情は、いつもの彼女に近い微笑みだった。普段と違うのは、濡れた睫ぐらいか。ラグは、しなやかに強い。
 ――俺の悩みなど、彼女に比べたら。俺など、彼女の強さに比べたら。
 俺は曖昧に笑った。