みどりのしずく

裏・夕焼けと朝焼け【2】

「私も、腕を」
 ラグは、ためらいがちに左の袖を肩まで捲り上げた。
「私だけはとどめを刺されなかったけれど、きっともう息をしていないように見えたんでしょうね。父と母と私の体は雪の中に無造作に積まれて、火を掛けられた。兵士たちはまもなく撤退して。私は両親の下でただ死を待ってた」
 凹凸を伴って今も生々しく残るのは、引き攣れたような傷の跡。相変わらずだが、俺はもう目を逸らさなかった。
 手首と肩が特にひどいのは、機工師の腕は落とせという命令のためだったのだ。そのころのラグはまだ年端もいかぬ子供で、機工どころか魔法だってろくに扱えなかっただろうに。
 そしてちょうど傷が一番酷い肩の辺りに、浅葱色の貴石が半ば埋まるように顔を覗かせている。白いながらも生気溢れる肌の上に、無機質な輝きがあまりに異質だった。
「前から気になってたんだけど、その石はなんなんだ?」
「魔力を秘めた石なんだって。怪我を治してもらうときに使って、特に生活に支障もないし、そのまま」
「……だいぶ重傷だったんだろうな」
「ちぎれかけてたって、あとから言われた」
「誰にだ?」
「通りすがった女の人に。雲と雪の鉛色と血の赤だけしか目に入らない中で、光を放つように輝く金の髪がほんとうにきれいで」
「金の髪、か」
「そう。私、自分がもう死んで、空の上の世界を見ているんだって本気で思った」
 ラグはうっとりと回想していたが、俺と視線が合うと、ぱっと目を見開いた。
「金の髪に青い目の――ルーと一緒だ!」
「はぁ?」
 この大陸で、金髪碧眼は限られた人間のみ、それもごく少ない人数しか存在しない――とされている。俺ですら、自分の家族以外に同様の容姿の人間を見たことはなかった。俺は普段、人々の噂に上るのを嫌い、頭に布を巻いている。それくらい珍しいのだ。
 ――では、ラグを助けたのはいったい誰か?
「……何て名だ、そいつ」
 分からない、とラグは俯く。
「自分の名前が分からない?」
「忘れたって言ってた。捨てたんだって。あまり聞かれたくないみたいだったから、それ以上は知らない。私は、勝手に名前を付けさせてもらって呼んでいたけど――『リュエット』って。北の言葉で『光』っていう意味。リュエット先生も機工と魔術に長けた人でね。……先生は、ぐったりと倒れていた私に聞いたの」

『お嬢ちゃん。生きたいなら、助けてあげましょうか』
『……たすけて』
『生きることが幸せとは限らないわ。それでも、生きたい?』
『わたし――わたしも、きこうしになりたいの。とうさんみたいに。だから、しあわせじゃなくても、いきる』
『分かった。私の命、ひとしずくあげる。……生かしてあげる。呪いたくなるほどに』

 ――生は、呪い。
 ラグの語るリュエットの言葉を聞き、俺の目の前は数瞬だが暗転した。それほどに強く共感を覚えたのだった。いつかきっと、俺自身もそう思う日が来るのだろうという確信とともに。
 少なくとも今のラグは人生を呪ってはいないように見える。もしかすると、ラグにもこれからそういう機会が訪れるのかもしれない。彼女はそのとき、辛さを隠して頑張ろうとするのか、それともどこかで折れてしまうのか。前者だろう、前者でいて欲しいと思うのは、俺の勝手なわがままだろうか。
「『お尋ね者』『死んだことになってる』っつーのは、一応分かった。今はどうなんだ? まだ手配されてんのか?」
「分からないよ。少なくとも、孤児院にいた頃にはそんな噂は聞かなかった」
 ラグに何も起こらないのは、現在は手配されていないからか、国外までは手が届かないからなのか。しかし、未だ追われているという可能性は残る。それだけ壮絶な体験をしたのなら、いくらリトリアージュに逃れてきたとはいえ、心のどこかに命の危険は燻っているだろう。もう狙われてはいないと言ってやれたらどんなにいいか。どうにかその辺りのことを調べてやれないだろうか、と俺は腕を組んだ。
「父のことは大好きで尊敬もしていたはずなんだけど、機工師になりたいって初めて思ったのが死にかけの頭の中だったなんて、変だよね。……ただ、父と母ができなかったことができたらいいなって思って」
「別に変じゃねえだろ」
 ラグは「そうかな」と呟いた。
 そして膝をただすと、俺をまともに見た。その視線をどうにか受け止められたことで、俺は少しだけ自分に自信が持てた。そう、ラグを励ますくらいの余裕が生まれるくらいには。
「なかなか表に出てこないから本当に本気なんだろうよ。……お前は死ななかったんだ。やりたいことをやればいいじゃねえか」
「じゃあ本当に本気で、ルーだから言うけど――私、北の国に戻って、機工でたくさんの人を幸せにしたいんだ。私が死ぬまで、出来る限り、何人でも。それに、両親の弔いもしてあげたい。墓標くらいは立ててあげなくちゃってずっと思ってる。……本当はすぐにでも帰りたい。きっと荒れてる今の方が、機工は必要だもん。でも、まずは一人前にならなくちゃ」
「じゃあ、北に帰るのか」
「いつか、ね。いくら遅くなっても、必ず帰るよ」
 ラグらしい夢だ、と思った。俺など、自分が見え始めたのはここ数日のことだというのに、彼女はもっともっと幼い頃に心を決めていたのだ。
 いまだクシクスとの争いが継続していることを考えると、北へ帰っても平穏な暮らしはできないだろうことは想像に難くない。それどころか過去の手配がまだ生きていて、身柄を拘束されるかもしれない。それでも、誰が止めたってきっと彼女は帰るだろう。
 ――こいつはそういうやつだ。
 俺は、尊敬の眼差しを彼女に向ける。目が合うと、ラグは照れたように笑った。いつも通りの彼女だ。
 ともあれ、緑の石とリュエットの魔法で、ラグの傷はまるで奇跡のように治った。傷跡まで完全に消すこともできると言われたらしいが、それは断ったらしい。
「治せばよかったじゃねえか。そしたら、部屋の戸締まりに気を使ったりしなくたって」
「忘れるのがいちばん嫌だったの。この痕を見れば、決意を確かめることができるからね」
 ラグは愛おしそうに自分の肩を抱いた。ふるさとを追われたラグに残されたのは、両親との逃避行の思い出と傷跡。文字通り傷を背負い、自分の一部として、『幸せとは限らない生』へと歩んできたのだろう。
「リュエット先生に巡り会ってからは、名前を変えて孤児院で過ごしてきたんだ。幸い、魔法を教えてもらえるところでね。先生も何度か来て、基礎的なことはだいたいできるようにしてくれたの」
 ラグは魔法を見込まれ、奨学生としてこの国に来た。魔法が得意なのは、機工師の娘という生まれに加え、リュエットという魔術師の指導もあったらしい。
 瀕死のラグをたちまち治してしまう俺と同じ色の魔法使いが酷く気にかかる。しかし、今の俺に調べる手だてはない。ただ、心に留めておこうとは思った。きっと、忘れようとしても忘れられないだろうが――。
「ん? ライグって、偽名なのか?」
「偽物の名前はもう捨てたよ。今は、親がくれた名前。リトリアージュに行ったら本当の名前に戻るんだって決めてたからね。……これで、だいたいのところは話したかな? 嫌がらずに聞いてくれる、心を預けてもいい人が側にいるって、嬉しいね。ルーがいてくれて良かった。人形姫に、感謝します」
 ラグは何かに祈るかのように両手を胸に置き、瞳を閉じた。
 リトリアージュの伝説に引っかけたその言い回しは、俺は正直好きではない。しかし、そんなことをラグに伝える気もない。彼女は彼女の考えるとおりいけばいい。
 ただ一つだけ、伝えておこうと思った。
「いろいろ分かって、大変だったんだなって心から思う。そんな言葉、安っぽすぎて使いたくねえけど、俺はバカだから他に上手いこと言えねえんだ。悪ぃな。……でも、基本的にお前の扱いは変えねえぞ。お前は、二番弟子だ」
「今まで通り、ってことだよね。……うん、それがいいな」
「それから――お前の夢を叶えるために俺にできることがあるなら、何だってしてやる」
「ありがとう」
 ラグはうっすらと笑った。
 本当の名前、本当の自分。
 ラグの言葉を、自分に言い聞かせるように胸の中で繰り返す。言いたいことや言わなくてはいけないことは山ほどあった。俺の中では、彼女なら驚かず受け入れてくれるのではないかという淡い期待が膨らんでいた。ラグにならいつか話をしてもいいのかもしれない。しかし、まだ吐き出す時期ではない、そんな気がする。
「どうかしたの?」
「もし、俺が今のお前みたいに話したくなったら、少し長いけど聞いてくれねえか。多分、近いうちに声かけると思うから」
「いいよ」
 ラグが間髪を入れず応えてくれる。今の俺にはそれで十分だった、のだが――。