みどりのしずく

三羽の鳥【1】

 バタン、と派手な音を立てた扉に仰天し、ラグは玄関を見た。
 開け放たれた扉の向こう、逆光の中に誰かが立っている。
 お客様だろうかと急ぎお迎えに上がり、ラグはさらに驚いた。玄関から見える路地に、見慣れない動物がうずくまっていたからだ。
 鈍く光る鱗を全身に纏い、太い足と大きな翼を持った生き物は、立ちすくんだラグの方に長い首をもたげた。生暖かい鼻息が届き、ラグは思わず震えた。
 竜だった。
 鞍を置かれているところから見ると、この客の乗り物なのだろう。この国の中で竜に乗れる人間といえば、それを養える財力を持った一部の身分の人々のみだ。
 逆光に慣れてまず気がついたのは、お客の出で立ちの怪しさだった。丈の長いコート、目深に被った帽子に色の入った眼鏡。間違った変装のしかただ。竜のことも合わせて考えると、高貴な方がお忍びでやってきたという感じだろうか。
 多少緊張しつつ、ラグは尋ねた。
「今日はどういったご用で?」
「仕事の依頼でね」
 声からすると、客は男性。彼は言いながら小道具を次々と取り去っていった。帽子の下からは金色の髪が溢れ、眼鏡を取ると青い瞳が現れる。兄弟子、ルーの特徴そのままの容姿だった。
 ルーはエスとカヤナとともに街まで買い物に出かけていたはずだが、同行していた二人の姿は見えない。一人だけ先に戻ったのだろうか。
「なんだ、ルーだったの」
 ラグは呆れて青年を見つめた。ラグの言葉を聞いてか聞かずか、彼はラグの方へとまっすぐに歩み寄ってきた。その身のこなしにラグは首を傾げた。野性的に大きな歩幅で歩くルーとは違い、目の前の青年は静かにすいすいとこちらに近づいてきたからだ。
 よく見ると金の髪もルーのように手入れを怠ったものではなく、きれいに梳かしてある。第一印象でルーだと思いこんでしまったためか、ラグは彼が自分のすぐそばにやってきて初めてその違いに気づいた。しかし、時すでに遅し、だ。
「初めまして、お嬢さん」
 青年があまりに自然に手を差し出したので、ラグも彼に倣って――というよりも、半ば反射的に、つい右手を出してしまった。
 彼の手が強くもなく弱くもない力加減でラグの手を握る。彼はゆったりとした動作でラグの手に左手を添えて持ち上げると、面食らっているラグを後目に、手の甲に軽く口づけた。
 ラグたちよりもぐっと上の階級の人々の間で交わされる挨拶だった。これまでそんな上等な扱いなど受けたことはなく、ラグはただ戸惑って立ちつくす。
「どうぞよろしく」
 青年はラグを解放するととろけるような柔らかさで微笑んだが、ラグは青年の笑みと同時に勢いよく手を引いてしまった。どうしても唇が触れた手の甲に目をやってしまう。すると今度は顔が耳まで熱くなり、どうにも落ち着かない。
 そして、ラグは遅まきながら確信した。
 ルーがこのように紳士的なエスコートの仕方を知っているとは思えない。背格好や顔形はルーにそっくりだが、この青年はルーとは別人だ。
 多少うわずった声でラグは詫びた。
「あの、失礼しました。兄弟子にとてもよく似ていらっしゃったので」
「私をあの馬鹿と間違えるとは、ずいぶんと人の悪いお嬢さんだ」
 流れからいって、馬鹿とはルーのことだろうか。では、この青年はルーの知り合いということになるが、はて。
 彼は「似てしまったのだ。不本意ながら」と深いため息を吐く。そして、先ほどと全く同じ笑顔――目の細め方から唇の開き具合まで同じだ――を浮かべ、名乗った。
「お初にお目にかかる。アルノルートの弟、エルレーン。以後、よろしく。……愚兄が世話を掛けているな」
 どこかで聞いた名だな、とラグは思った。しかし、どこで聞いた、あるいは見たのか、それが思い出せない。ルーの弟だというならば、ルーの口から出たのだろうか。
 ルーが家族について語ったことなどあっただろうか。ラグの記憶には、そんな姿はなかった。
「ルーの、弟さん」
「不本意ながら」
 ラグの問いに、エルレーンは訓練された笑顔で繰り返した。本人は不本意かもしれないが、兄と見間違うほど似ているのだから疑う余地はない。
 思い返せば、ルーには初対面で腕をねじ上げられたのだった。弟と名乗るこの青年は正反対の歓迎をしてくれたが、いずれにしても尋常ではない出会いだ。その点でも似ているといえば似ているかもしれない。
 そういえばこちらは名乗っていなかったと、ラグは慌てて自己紹介する。
「見習いということは、アルノルートと一緒に学んでいるのだな」
「はい。アルノルートさんには、いつもお世話になっています」
「私が奴の身内だからといって、無理に奴を持ち上げなくてもいいのだぞ」
 なぜだか、ラグは胸の中がもやもやするのを感じた。外に押し出したくなるような澱が、心の奥底に淀み始める。深い呼吸でその濁りを吐き出そうとしたが、なかなか上手くいかない。
 エルレーンはそう広くもない工房の中を見回すと、首を傾げた。
「今日は客として来たのだが、アルノルートは」
「あいにく、外出中で」
「ならば待たせてもらおうか」
「構いません。お茶をお淹れしますから、ちょっとお待ちくださいね。……あの、フィスタならおりますが、お呼びしましょうか?」
「いや、あいつは苦手だ。私はここで茶を待とう」
 エルレーンはそう言うと、応接用のソファに身を沈めた。


 ラグはお茶の準備をしながらエルレーンの言葉を反芻していた。
 ラグのこれまでの人生の中に、兄に似た容姿を『不本意』と言い、兄を『馬鹿』と評す弟はいなかった。もっとも、兄妹と聞いてまず思い浮かぶのはうちの師匠と助手という狭い世界の話だが、それでもエルレーンほど露骨に兄への気持ちを表す弟は珍しいのではないか、とラグは思う。
 ルーは以前、『家に帰りたいとは思わない』と言っていた。それはもしや、エルレーンが関係しているのではないのか。血の繋がった家族と一緒にいたくないと思うほどの溝――帰る家を捨ててしまえるほどの決意は、どうしたら生まれるのだろう。
 ――下世話な詮索はよくないな。
 当事者だけにしか見えない問題は当然あるだろうし、繋がっているだけに許せないことだってあるかもしれない。いずれにしろ、憎い血縁者、というものを持たないラグにはぴんとこないのだった。

 ラグが戻ってくると、エルレーンは足を組んでソファに座っていた。すらりと伸びた足はさらっと組んだだけでも絵になり、思わず見とれそうになる。これがルーなら、膝を開いてどっかりと座っているだろうに、やはり外見以外は似ても似つかない。
 エルレーンにお茶を勧め、ラグもテーブルを挟んで向かいに腰掛けた。ルーはもうそろそろ帰ってくるはずだし、それまでお客さんが手持ちぶさたにならないように努めるのも見習いの使命である。
「エルレーンさんは、ルーといくつ違うんですか?」
「レンでいい。そのほうが気に入っているのでね」
「あ、はい、レンさん」
「よろしい。……確か、二つ下かな」
「そうすると、私と同い年ということになりますね。ずいぶん落ち着いていらっしゃるから、もっと年上かと思いました」
「それはちょうど良いな」
「何がですか?」
「いや、こちらの話だ。……不束な兄が、さぞ迷惑をかけているだろう」
「そんなことないです! いつも、ルーにはお世話になっています。何度も助けてもらっていて」
 強い口調になってしまっていることに、ラグは後から気付いた。
 アカネの一件、そして自分の過去を話し、受け入れてくれて以来、ラグがルーに寄せる信頼は揺るぎないものになっていた。普段は素っ気ないのに、ラグが頼りたいときにはなぜか先回りしてくれるルー。ここのところ、そんなことをもう何度も繰り返している。だから、弟といえども、ルーのことを悪く言ってほしくはなかった。
 レンは少々不機嫌そうにお茶をすすった。お茶がまずいから渋い顔というわけではなく、ラグのルー評に何か思うところがあったのだろう。自分が良く思っていない人間――ルーのことだが――を目の前で褒められるというのは、確かに楽しいことではないはずだ。
 改めて向かい合うと、レンの瞳はきれいな空色。ルーの深い海のような色よりもかなり明るい。髪はルーよりも色味の薄いしろがね色で、眩しく輝いている。その抑えた色が、レンになんとも上品でスマートな印象を与えている。また、身につけているものも、飾り気はないが相当高価なもののように見えた。
 そういえば、ルーが嫌がるので彼の実家について話をしたことはほとんどないが、レンを見て判断するに、かなりいい家のお坊ちゃんかもしれない。あの大ざっぱさからは想像も付かないが。
 レンが小さく咳払いをし、身を乗り出してきた。先ほどまでの笑顔よりも少年らしい、いたずらっぽい目でラグを見ている。
「お嬢さん、これから時間はあるかな」
「時間、ですか?」
 ラグは突然のことに鸚鵡返しに聞き返した。
「ああ。ここまで出て来たのは久しぶりだ。街を歩きたいのだが、案内を頼まれてはくれないかな」
「あの、ご用のほうは? なにか、アルノルートにご依頼があったのでは」
「それは奴が帰ってこないとどうにもならないのだから、後回しだ。……優先すべきは、君だ」
 レンがテーブル越しにラグの手を取った。最初の挨拶の時とは違い、力のこもったレンの手に、ラグもようやく雲行きが怪しくなってきたのだと気付いた。『お嬢さん』ではなく『君だ』という言葉に何とも言えぬ艶を感じて、ラグの頬が熱くなる。
「街歩きなどただの口実だ。君を連れて帰るための」
「ど――どこにですか?」
「分からないのか。花嫁に迎えるということだ」
 レンは、当然だと言わんばかりに笑った。表情はひたすらに明るく、傲慢さや意地の悪さのかけらもないことが、かえって彼が本気であることを示しているようだった。
 一方のラグはあまりのことに絶句した。さっき出会ったばかりでプロポーズなど、むちゃくちゃだ。
 狼狽しながらも、ラグは先ほどのもやもやしたものが再びせり上がってくるのを感じていた。違和感の塊がかさを増し、心を押しつぶしている。何だか息まで苦しくなっているようだ。
「待ってください。困ります」
「いやだ。運命をみすみす逃がすなんて御免だね」
 レンが不敵に言い、手をさらに強く引いた。バランスを崩したラグはレンの胸に倒れ込む。テーブルが邪魔をしていなければ、完全に抱きしめられていただろう。
「私なら。……私は、一度つないだ手は離さない」
 今度はやけに苦しげに、レンは嗄れたような声で呟いた。その声に一瞬だが同情を覚える。ラグがあまりの落差に耳を疑うほどに、弱々しかったのだ。