みどりのしずく

三羽の鳥【2】

「連れて行く」
「ちょっと待ってください」

 レンとラグがそんなやりとりを何度か繰り返したあたりで、助け船――レンにとっては邪魔――が入った。
「エルレーン様。どこへ攫っていくおつもりですか」
 自室に籠もっていたはずのフィスタが、騒ぎを聞きつけて現れたのだった。フィスタはレンとラグの間に入り、二人を元通りに座らせた。
「いいところで。だからお前は嫌なんだ」
「口説くにしてもせっかち過ぎますよ。それに、まだその子は渡せません。修行中の大事な弟子ですからね。……汚い椅子ですが、もう少し待っていてください。ルーもそろそろ来るでしょう。今日は、お供の方は?」
「まいてきた」
 ラグが『撒いてきた』だと気付くのに、少しかかった。フィスタは苦笑いを浮かべる。
「みなさん、きっと今頃心配してらっしゃいます」
「構わぬ。ルーの奴がいれば私など必要はないだろう」
「またそんなことを。まだルー一人では心許ないんですから、エルレーン様も力を貸してくださらないと」
「面倒なことは御免蒙る。しょせんは次男、名のみの王子だ。気楽にやらせて貰う」
「……おうじ?」
 つい、口に出してしまっていたらしい。レンとフィスタが、声にはっとしてラグの方を見た。
 フィスタは焦った様子でレンを制す。
「エルレーン様、ラグには内密に」
「……遅い。もう言ってしまった」
 レンはしかめっ面で言い捨てて、肩をすくめた。不機嫌そうな表情をすると、彼はますますルーに似る。
 レンが次男で王子、と言ったのだろうか。
 レンが次男ならルーは長男、そしてルーもまた王子。王子って何のことだっけ――と、ラグはひとつひとつ、湧き上がる疑問を潰していく。理解が追いつかなかった。
 頭の中を整理しきらないうちに、レンが改まって名乗りを上げる。
「私は、エルレーン=ザスヴェル=リトリアージュ。リトリアージュ王国、二の王子」
 レンがこの国の王子。それ自体も確かに驚きではあるものの、彼の立ち居振る舞いや醸し出される雰囲気などからは高貴さがにじみ出ていたから、思ったより衝撃は小さかった。それよりも驚くべきは、ルーがレンの兄であること、つまり――。
「それって、ルーが一の王子で、皇太子様っていうことですか」
「そうだ」
 言われてみれば、ラグが知る一の王子の名は『アルノルート』だ。ならば、『エルレーン』に聞き覚えがあったのも同じことか。
 しかし、うちのルーと王子がいくら同じ名だからといって、同一人物であるなどと誰が考えるだろう。少なくとも、ラグは考えなかった。ルーの名を知って、王子と同名か、ありふれた名前なのかな、とは思ったけれど。
 リトリアージュの王や王子など、ラグにとっては雲の上の存在と表現していいくらい遠いものだった。おとぎ話に出てくる人形姫の血が、今も受け継がれている王家。その伝説に憧れはあれど、関わりを持つことなど一生無いと思っていた――無いはずだったのに。
「金の髪と青い目だぞ。当然だろう?」
 レンが、大きなまばたきを二、三度繰り返す。どうして分からないのか、という驚きを隠しもしない。
 困惑するラグを気遣うように、フィスタがレンをたしなめる。
「だから、やめた方がいいと言いましたのに。彼女はこの国の人間じゃないんです。知らなかったんですよ、何も」
「では、覚えておくといい。この大陸でこの髪と目の色を持つのは、リトリアージュ王家に連なる者だけだ。だから、私の姿を見ても普通に接してくれた君を、ぜひ私の妻にと思ったのだが。……まあいい。そうでなくても、妻にするならば機工に長けた娘を、とは常々考えていた。フィスタの弟子ならば、実力は申し分ない」
 レンは、再び手を取りそうな勢いでラグをまじまじと見つめた。天色の瞳は心の底まで見透かすようで、ラグは体を固くした。
 ――ルーが背負っていたのは、このことだったんだ。
 確かルーは、金髪と碧眼を併せ持つ人間は家族だけだとは言ったが、それが王の血を引く者だ、とは一言も口にしなかった。
 『俺が話したくなったら聞いてくれ』という、ルーの必死な声が思い出される。まるで、ラグにすがりつき、救いを求めているかのように、ラグには聞こえた。それまでのルーが良き兄であり頼れる先輩であっただけに、あの時の危うい雰囲気にはラグ自身も身を切られるような辛さを覚えたものだ。
「まだ知る時期ではなかったんです。私はずっと、ルーからラグに話してくれるのを、待っていたんですよ」
 フィスタは大きくため息を吐き、寂しそうに呟いた。
 ラグがルーに過去を打ち明けることができたように、フィスタはルーにも期待していたのだろう。ルー自身、近いうちに話すつもりだと言っていたし、ラグもそれを待っていた。ルー自らが最初にラグに伝えてくれる、その機会は永遠に失われてしまったのだ。ラグにはそのことがひどく寂しく思えた。
 ルーの声が工房に響き渡ったのは、会話が途切れていたちょうどそのときだった。

「表の竜は、レンの奴か?」

 ルーは買い出しの荷を抱え、ドアを開けたところだった。
「エスが、ちょっと具合が悪いって、買い物してた店の奥を借りて休んでんだ。カヤナに付いててもらってるけど、俺、荷物置いたら迎えに行ってくる」
「……エスが?」
 フィスタの顔色が、明らかに変わった。さっと青ざめたように、ラグには見えた。
「ああ。なんか『いつものことです』って言ってたけど、大丈夫なのか?」
「まあ、まだ大丈夫でしょう。……後で私が行きますよ。お店の方にも、お礼をしなくてはなりませんし」
「そうか? じゃ、頼む」
 ほどなく、ルーは呆然としているラグに気がついたらしく、荷物を脇に置いてこちらへ歩いてくる。ルーはラグの顔を覗き込むように腰を丸め、「どうした?」と軽い調子で聞いた。同じ目の高さで話してくれる、いつも通りのルーだ。
「何だ、変な顔して。さては、レンに言い寄られたか」
「馬鹿のお出ましだな」
「おい。……やっぱりお前か。誰が馬鹿だって?」
 レンの辛辣な物言いに、ルーは途端に怒りをあらわにした。ルーが炎ならレンは水か氷。対照的な兄弟の仲は、ラグが危惧していたとおり、やはり良くないらしい。
「ルー」
 ラグは震える声で、どうにか名を呼んだ。
 しかし、その後に尋ねようとしていたことがどうしても口から出てこない。ルーに直接聞く勇気はラグの中には残っていなかったし、いまさらそう聞いてみたところで、ラグはもう知ってしまっている。
「何か、あったのか?」
 ラグを諦め、ルーはフィスタに問うた。フィスタは沈痛な表情でルーに向かうと、ゆっくりと首を横に振った。こちらも言葉はない。
 やがて、ルーはゆっくりと目を見開いた。軋む音が聞こえてきそうなぎこちない動きで、レンの方に向き直る。
「お前、まさか――」
「意気地なしの兄に代わってな。お前の仮面は、もう剥がしたぞ」
「やめろ!」
 突如、ルーは爆ぜるような勢いでレンに詰め寄り、その胸ぐらを掴んで無理矢理立ち上がらせた。レンはされるがままになりながらも、なぜか笑っていた。何がおかしいのか、右の口角だけを上げ、貼り付けたような笑みを浮かべている。
 それに気付いたルーが、レンをがくがくと揺さぶった。
「なんで笑う。何がおかしい!」
「滑稽だ。茶番だな。彼女を騙し通せると思っていたのか」
 レンは目だけでラグを示してみせる。ルーの声が、一段高くなった。
「違う! 騙すなんて考えてなかった! 俺は、時が来たら話そうと思って――」
「ルー! エルレーン様も、やめてください!」
 フィスタが慌てて二人の間に割り込んだ。
 そんな制止などものともせず、レンは「あははは」と乾いた笑い声を上げた。相変わらず目は笑っておらず、ただ空色の瞳が寒々しく光っている。
 やがてレンは逆にルーにぐっと迫り、額が触れ合いそうな距離まで間合いを詰めた。レンの手が不意に動き、ルーがいつも頭に巻いている布を乱暴に引っ張り、むしり取る。ルーはレンから咄嗟に手を離し、髪の毛を押さえたが、金色は隠しようもなく零れて光った。
 この上なく意地悪く、しかしどこまでも優雅に、レンはルーに――というよりも、ラグに向けて言い放った。
「伝えてやったよ、ルー。……もとい、アルノルート=ユリストバド=リトリアージュ。お前が現リトリアージュ国王の第一子――この国の後継者だということを。ずっと周囲をたばかって――」
 レンが言い終える前に、ルーは無言でレンを殴り飛ばした。レンは殴られた頬を抑え、崩れるように椅子に落ちながらも、やはり笑っている。
 ラグはルーの方を見たものの、今居る位置からはルーの顔は見えない。しかし、後ろ姿でも彼の肩が震えているのは分かった。レンに対する怒りで震えているのだろうか、それとも――まさか、泣いているのだろうか。
 殴られて切れたらしく、レンの口の端から一筋、血が伝っていた。手の甲でそれを拭い、レンは鼻で笑った。
「まさか、本気で機工師になれるとでも考えていたか?」
「そんなこと――」
「出自を隠したところで何になる。みどりの血には抗えないぞ。お前も私も、そしてメルフィも」
 メルフィの名は、ラグにも聞き覚えがあった。
 リトリアージュ王には三人の子がある、ということはラグも知っていた。すべて母親が違う三人は上の二人が王子、そして末っ子は姫であり、三人とも王宮に住まっていると。
 その姫の愛称がメルフィ。正式な名は、確かメルフィーナというはずだ。兄二人の情報は名前くらいしか外に出されていないのだが、一の姫メルフィについてはある程度以上のことは知っていた。メルフィ姫の動向を大々的に公にすることで、二人の兄から目を逸らさせるという目的もあったのかもしれない。そうでなくても、周囲の人間の先入観――王子が市井で暮らし、機工の勉強しているなどと誰が思うだろう――を利用すれば目くらましは十分。それは、ラグで実証されている。
「……メルフィ?」
 妹の名を持ち出されてルーの頭も少しは冷えたらしく、はっとした顔で聞き返す。それは口に出したレンも同様のようで、思い出したかのように当初の目的を告げた。
「そうだ。……今日は、お前と無駄話をしに来たわけではない。まだ少し先になるが、あいつの誕生日のことでここに来た。祝いの品を依頼にな」
「うちの工房への、正式な仕事ですか」
 フィスタが尋ねると、レンは首を振る。
「私が、個人的にルーに依頼するのだ。不本意ながらな」
「なんで、俺に? 王のお抱えなんだから、先生の方が適任だろ」
「メルフィが望んだ。お前が自分のために作ったものを、手元に置きたいと。……金はいくらかかってもいい。言い値で出そう。何を作るのかにも、意匠やデザインにも、私は一切干渉しない。条件はただ一つ、ルーができあがりまで責任を持って制作することのみ」
「受けない、という選択肢は」
 ルーは俯いたままで尋ねた。相変わらず表情は分からない。
「ないな。メルフィを悲しませることは私が許さない。そして、メルフィの頼みなら、お前は断れない」
 レンはきっぱりと言った。
 妹に弱い兄二人、という構図が垣間見える。似たもの同士ならば仲良くすれば、と思うが、そうもいかない事情がいろいろとあるのだろう。
「……分かったよ。やらせてもらう」
 ようやく上げたルーの顔は青白く見える。辛うじてでも、この状況下で返事ができるだけの精神力が彼には残っているのだ。ラグはそれが自分のことのように誇らしかった。
「ということだ、フィスタ。手を出しすぎないようにしてくれ」
「承りました。メルフィーナ様のお誕生日までに、必ず。監督は私にお任せください」
「それから、お嬢さん。いや、ライグ」
「は、はい!」
 レンにいきなり呼ばれて、ラグの声はうわずった。
 レンは立ち上がり、そつのない動きでラグの前に立ち、再び手を取る。
「お茶、なかなか旨かった。あのように粗末な葉であれだけの味を出すとは素晴らしい。また味わいたいものだな。……今度は是非、私の部屋で」
 意味ありげに言うとラグの手に口づけて、レンは何度目かの決まり切った笑顔を浮かべた。まるで生活感が感じられない仕草の中で、レンの口元で拭い切れていない血だけが色濃く見えた。その赤はラグの手の甲にも移っていて、レンが竜に跨って去っていった後もラグの目を引き、同時に言葉にならないわだかまりも胸に残したのだった。

 フィスタがエスとカヤナを迎えに行き、工房の中はラグとルーだけになった。
 ルーもラグも、レンがいなくなってから一言も発していない。さきほどレンとラグがそうしていたように、応接用の長椅子にテーブルを挟んで座っているものの、会話はなかった。
 ラグは、ルーの顔を盗み見た。魂が抜け出したあとのような表情をしている。虚ろな視線はラグを通り越し、より後ろのどこかに投げられていた。
 レンよりも濃い紺青の目と、より深い金の髪。この国の一の王子。アルノルート=トリアではなく、アルノルート=ユリストバド=リトリアージュ。それがルーの本当の、王族としての名。
 ――王子ともあろう方が、どうして街の工房にいるのだろう。隠遁先としてこの工房を選んだのはなぜだろう。やはり、王家お抱えであるフィスタの腕を買って、ということなのか。兄弟仲が悪いのはなぜだろう。メルフィ姫とはうまくやっているのだろうか。王宮に戻らなくてもいいのだろうか。戻るなら、それはいつになるのだろう。王位を継ぐとき――王になるときなのだろうか。
 ラグが尋ねなくても分かるのは、『どうして、今まで黙っていたのだろう』ということくらいだった。ルーは、ラグに話そうと思っていたはずだ。これまで言いたくても言えず、やっと決心が付いて心の準備を始めた、その矢先のレンの来訪だったのだ。
 全部聞けたらどれだけすっきりするだろうとは思うのだが、ラグはそれらをルーに聞く気にはなれなかった。ラグ自身、事実を把握することで精一杯だったことが大きい。また、今のルーがそれに答えられる心境ではないことは様子を見れば分かったし、敢えて尋ねて苦しめる気もなかった。
 ただ、それでも一つだけ、ルーに伝えておきたいことがあった。
「一つだけ、いいかな」
「……何だ」
 ルーは深く息を吐くと、がっくりと頭を垂れた。布で押さえつけられて癖の付いた髪の毛も、肩を滑って流れる。まとめて結わえていたレンほどではないが、意外に長さのある髪だった。
 ラグが初めてこの工房に来たとき、ルーは言っていた。
『敬語は鳥肌が立つっつーか――丁寧に話されるの、昔から苦手でよ。修行中は対等に、頼むぜ』
 今になって、やっと分かった。何か理由があって王宮を出てきたルーにとって、この工房は自分の身分を気にせずにいられる数少ない場所なのだと。だからこそラグにも『普通に』振る舞うことを求めたのだろうし、ラグもそれに応じて、ともに修行に励んできた。
 話を聞いたからといってすぐにその態度を翻すのは、積み重ねてきた日々を捨てるようなものだ、とラグは思った。だいたい、ルーの口からその言葉を聞いていないからなのか、ラグにとって彼は未だに兄弟子で、王子などとは到底思えなかったのだ。
「私、ルーって呼んでいてもいい?」
「……ああ」
 ルーは、それ以上何も言わなかった。