みどりのしずく

三羽の鳥【10】

 やがてルーにラグの助けがいらなくなるくらいの時間が経ったころ、ルーは牢の中に「なあ」と呼びかけた。
「なんで、俺なんかにそんなに尽くすんだ?」
「お前には借りがある。お前は確かに私を守ってくれたからな。今度は、私が守る番だからだ」
 これまでよりもやや和らいだ声だった。
「……昔のことだから、お前は忘れていてくれていい。ただ、お前の一言がどれだけ私の支えになっていたか、私は決して忘れない」
 『俺がついてる。守ってやるから』。それは兄が口にしたささやかな、けれど大事な約束だ。
 ルーを見れば、牢の中を覗き込む横顔は驚きの色に染まっている。ルーが今も悔やんでいる幼い頃の思い出を、レンもまた心に留めていたのだろう。ならば、二人は互いが知らぬまま、胸の奥深くでずっと繋がっていたのだ。
「忘れられるかよ、そんな大事なこと。……貸したつもりなんかねえぞ。なにせ、俺はこれからも約束を果たしてえと思ってるんだからな」
 金属音がした。ほの暗い牢の中でレンが立ち上がったのが見える。彼は初めて、窓に――外にいるルーとラグの方に顔を向けていた。その顔にラグは目を見張る。
「……そうか」
 そう言ったレンは、優しく微笑んでいた。
 レンの心は少しずつだが確実にほどけてきている。彼をもっとこちら側に引き寄せるには。もっと『心に響くもの』が、何かないものか――。
 考え込んで俯いたラグの目に、手元の布包みが飛び込んできた。持っていることすら忘れかけていた、姫への贈り物だった。
「あっ」
 思わず、小さく声が零れる。
 ――そう、これがあった。
 厳重に巻かれた布を丁寧に解き、ラグは中身を取り出した。三羽の鳥たちは騒ぎなど気にも留めず、枝で翼を休めている。まるで今も昔も変わらぬ、兄妹たちの思いのように。
「レン様。……これ、レン様ご依頼の品です」
 ラグは踏み台の上で精一杯手を伸ばし、小鳥たちを掲げた。
 レンの笑顔はすでに消えてはいたけれど、その表情が分かるのはこちらに顔を向けて、ラグとルーのことを見てくれているからだ。ラグは自信を持ってさらに高く持ち上げたが、しっかりとした作りの時計はそれなりに重量があり、だんだんとその重みが増すようにも思えた。それでも、と、ラグは背伸びをする。
「メルフィ様への、贈り物です」
 不意に、腕が軽くなった。
「貸せよ。……俺が持ってやるからお前は喋れ」
 ルーはそう言ってラグの肩を叩くと、小鳥の時計を貰い受け、ラグよりもさらに高く掲げる。
「それならルーが伝えた方が――」
「いや。お前に頼む。……お前の方がいい」
 その顔はなぜだか、とても誇らしげだった。
 頼まれたからにはちゃんと役目を果たさなくてはと、ラグは小さく咳払いをしてから口を開いた。
「レン様。これ、枝に小鳥がいるんです。ちゃんと三羽、見えていますか?」
「ああ」
「ルーと、レン様とメルフィ様で、三人一緒なんです。……これが、ルーとメルフィ様の思いですし、お二人と――」
 ラグはそこで数瞬迷った。
 思い出すのは、ルーが夜遅く帰ってきたあの夜。ルーと二人で確かめ合った、依頼品に籠める職人の気持ちだ。
「……私の、願いです」
 レンの返事は無い。ただ、わずかに鎖を引きずる音がした。
 ルーは足下にそっと時計を置くと、静かに語りかけた。
「レン。俺はお前と一緒にこの国を支えていきたい。俺一人じゃできないなんて泣き言はもう言わねえし、軽々しく言える立場でもねえ。けど、一人より二人、二人より三人の方がもっといい国にできるはずだって信じてるんだ。……だから頼む。そこから、出てきてくれ――」
 ルーの言葉はやがて悲鳴のような響きとなり、地下にこだました。
「お願いです、レン様!」
 ラグの叫びも石の壁に何度も跳ね返り、消えた。
 反応のない牢の中を覗くのが恐くて、ラグは立ちつくす。ルーはと言えば、やはり叫び終えたままの格好でレンの動きを待っていた。
 不意に、壁の向こうから、ははは、と声がした。ラグが驚いて窓に顔を近づけると、こちらを見上げて不敵に笑うレンと目が合った。
「二人とも、いつまでそんな格好をしているつもりだ」
「あ?」
「ええ?」
「鍵がかかっていては出られんだろう」
「あの――」
「口説くのには慣れているのだが、口説かれたのは初めてだよ、ラグ。君が、そんなに私のことを必要としていたとは知らなかった」
 レンはにっと歯を見せた。
 いつもの尊大な、けれどなぜか憎めない王子の態度だった。レンの突然の復活に、ラグは唖然としつつも、胸の中が満たされてゆくのを感じていた。
「そうまで言い寄られては、受けるしかないだろう。さあ、ルー。早く開けるがいい」
 レンはしれっとそんなことを言う。
 ルーはといえば「言われなくてもさっさと開けてやらぁ」と乱暴に言い返しながらも、近頃めったに見せなかった心からの笑顔を隠しきれない様子だった。
「良かったね、ルー」
「ああ」
 大きく頷く仕草にも勢いがある。萎れた花が勢いを取り戻したかのように、ぱっと笑顔が咲いた。
 ――ほんとに嬉しそう。
 ルーの表情に満ちているのは、単に弟を牢から出すことができたという安堵だけではないだろう。弟との繋がり、そして遠ざけていた本当の家族をも取り戻した充足感。いままでずっと欠けていた心のかけらをひとつ、ようやく手に入れたのだ。
 
「開けてくれって言っても――鍵を持ってこねえとな」
「それならば、ご心配なく」
 よく通る渋い声がして、ルーとラグは振り向いた。
 知らぬ間に離脱していたジラデンが、再び音もなく側に控えていた。その手には鍵束が握られている。
「牢の鍵か?」
「ええ。取りに戻っておりました」
「さすがジラデン! ありがとな」
「いいえ。お側を離れて申し訳ない」
 ジラデンはルーに労われてもなお反省しきりという顔で頭を下げる。そして、レンの牢のものだろう、鍵の中から一本を選び出した。
 ルーはそれを奪い取るように受け取って、分厚い扉の鍵穴に差し込んで回した。鍵穴が一瞬光を放ち、空気が緩む感覚がラグの肌にまで伝わってくる。何が起きたのかとラグが首を捻っているとジラデンが教えてくれた。
「牢自体が一つの結界になっております。魔法で牢破りをするものもおりましてな」
 そうこうしている間に、ルーは自ら扉を開いて中へ踏み入っていた。間もなく、部屋の奥から二つの人影が現れる。
 レンは自らの足で歩いていたし、明るい表情を見る限りは元気そうに見えた。しかし外に出たことで、レンには似合わない囚人用の粗末な服と埃にまみれた体、重しの付いた手枷と足枷が明かりに照らされて、ラグたちはレンが自分に課した罪を目の当たりにすることになった。白金の髪と青い瞳がなければ、誰も彼が王子だとは思うまい。
 すかさず、ルーが羽織っていたマントを脱いでレンの肩に掛けてやる。
「寒くはないぞ」
「……見たくねえし、見せたくねえんだよ」
「よけいなお世話だ」
 レンは軽口を叩きながらも、その好意を受け入れた。座り込んだレンを見て、ジラデンがその太い眉を思い切り寄せる。
「楽にして差し上げましょうなあ」
 ジラデンは再び鍵を選び出し、今度は自らレンの枷を外した。枷のせいでレンの手足は擦り切れており、血が滲んでいる。
 ラグは魔法でレンの手足を治そうと、少々早口で詠唱する。やがて、ラグの癒しの光に包まれたレンがくすぐったそうに笑って言った。
「弱い小鳥同士群れるのも、いいものだな」


 レンを連れ帰ると、メルフィは泣き笑いの表情でレンに飛びついてきた。レンはそのメルフィを優しく受け止め、頭を撫でてやっている。そして、それを眺めるルーの姿。
 やがてメルフィは顔を上げ、かしこまって言った。
「お帰りなさいませ、小兄さま」
「心配かけたようだな」
「本当だよ」
 メルフィは、今度は不満げに口を尖らせた。
 ラグたちがはじめにメルフィの部屋を訪れたときの様子からすると、彼女は心配などという一言で片付けられないくらいに心を痛めていたはずだった。それは、きっとレンには伏せておきたいのだろう。
「でもね。小兄さまは大兄さまのことを考えて、大兄さまは小兄さまのこと考えて。本当はどこにいてもみんな繋がってるって、信じてたんだ」
 レン、そしてルーの服の裾を掴み、メルフィは幸せそうに言った。
 三人の兄妹が揃った光景を、ラグは初めて目の当たりにした。きっかけはルーの命の危険、レンの投獄――自ら牢に入ったのだから、齟齬はあるが――という決して喜ばしくない出来事だった。これから考えなくてはならないことも山積みで、特にレンはこれから実の母の裁きが待っている。辛い日々もあるだろう。
 けれど、こうして三人が並んで笑っている姿、訪れた穏やかな時間はなにものにも代えがたいと、ラグは思った。