みどりのしずく

三羽の鳥【3】

 夜、無人の工房で作業机に向かいながらも、ラグの手は止まっていた。
 工房には、フィスタの姿はない。
 そして、ルーの姿も。ここのところ、声を掛けられることすら避けているのだろうか、彼は部屋に籠もりがちなのだ。

 あれから数日経つが、メルフィ姫への贈り物はまだ決まっていない。ルーがその気にならないので、手伝いしか許されていないフィスタやラグはもどかしく見守っているだけだった。
 もっとも、フィスタはエスの体調のことが心にかかっているらしく、ルーだけを見ているというわけにもいかないようだった。エスの具合が悪くなるのは初めてではないそうで、レンの依頼が落ち着いたらかかりつけの医師に診てもらうことにしたらしい。今はフィスタの魔法で症状を抑えているといい、エス自身は至って普通に過ごしており体調不良にはとても見えない。
 むしろ、具合が悪そうなのはルーの方だった。快活さやおおらかさは影を潜め、ここしばらくは頭を抱えたり、目を閉じて何事かを考えたりしていることが多くなっている。それがレンからの依頼について悩んでいるのか、それとも別のことについてなのかは、ラグには分からない。ただ、レンの訪問以来、ルーが沈んでいることだけは確かだ。レンに秘密を暴かれたことが、よほどこたえているのだろう。
「……さびしい」
「寂しいんだ?」
 独り言に返事があって、ラグは驚きで体を震わせた。机の下からカヤナがこちらを見上げている。
「そうなのかな?」
 カヤナはちょろちょろと机の下から出て、器用にラグの膝に登ってきた。ラグと向かい合う形で膝の上にぺたんと座り、無邪気に首を傾げる。
「おれが聞いてるんだけどな。何が寂しいの? ルーが、元気ないから? 先生やエスが元気ないから?」
 カヤナに尋ねられ、ラグは答えに窮した。
 当たり前だと思っていた毎日がこうも簡単に途切れてしまうとは、数日前のラグは考えていなかった。工房に出てきても誰にも会えない日が来るなんて。フィスタもエスも、そしてルーも居ない空間はラグにとっては広すぎて、心細かった。
「やっぱり、いつも通りじゃないと落ち着かなくて。カヤナがいてくれてよかった」
「おれは通常営業だから、おれの前では普通にしてよ。独り言じゃなくて、ちゃんと愚痴っていいんだよ」
 カヤナはこうして大人びた物言いをすることがあった。普段は少年らしすぎるくらいなのだが、たまに驚くほどしっかりした言葉を使う。ラグが落ち込んでいるときにはいち早く察知して、優しく励ましてくれるのだ。そんなとき、ラグはカヤナに『兄』としての安らぎを感じる――ちょうど、ルーに似たものを。
「ありがとう。……でも、私が弱音なんて吐いたら、みんなに悪いよ」
「どうして?」
「今、みんな大変だから」
「エスのことなら大丈夫だよ。先生が大丈夫だって言ったもん。……あ、そうか。ルーの方で悩んでるんだ?」
 見透かされて、ラグは苦笑いを浮かべた。
 ラグの瞳の奥には、震える広い背中が焼き付いている。
 ルーが一の王子だと聞いたそのときこそ驚きはしたが、その事実が受け入れられないというものではない。ただ、それはあくまでもレンからの情報だ。
 ラグはまだ、ルーとは当たり障りのない会話しかしていなかった。
「私、ルーの口から聞きたいんだと思う。先にレン――エルレーン様から聞いちゃったんだけど、やっぱりルーからちゃんと教えて欲しいなって」
「本人に聞いてみたらいいじゃない」
 カヤナはこともなげに言った。
 それはひどく明快で、唯一の答えのように、ラグには聞こえた。
「知りたいって、思っていいのかな。ルーは嫌じゃないのかな、詮索したりして」
「だって気になるんでしょ? ルーの事情を知るってのは、お姉ちゃんにとってはすごく大切なことなんでしょ?」
「うん」
「ルーは単純だからさ、聞かれたら言っちゃいたくなるかもしれないよ。誰も聞いてくれないのも、孤独で、辛いと思う。……おれはそうだよ――そうだったよ」
 そう言って、幼い顔に似合わないため息を一つ。カヤナは長い間、人形として独りで過ごしてきた過去を持つ。恐らく、そのときのことを思い出して言っているのだろう。
 ――私は、ルーに過去を知って欲しいと思ったから話した。では、ルーはどうだろう?
 自分が彼に過去を打ち明けたときのように、もしかしたらルーにもそのうち契機があって、自ら語ってくれるかもしれない。逆にもしかしたら何も話さないかもしれないとも思うのだけれど。
 ラグにはどちらでもよかった。ルーと、前のように肩を並べて笑えるのなら。
「うん。……聞くだけ聞いてみることにするよ。ありがとう、カヤナ」
「おれ、味方はしたくないんだけどな」
「味方?」
「もし渡すのなら、よく分かんない二の王子とかいう奴よりルーの方がましだからね。消去法」
 カヤナははぐらかすように笑った。
「……相談に乗ったごほうび、ちょうだい!」
 膝の上から、ラグの背にカヤナの手が回る。ラグがぎゅっと抱き返すと、カヤナはラグの身体に顔を埋め、まるで小動物のようにぷるぷると体を震わせた。長い耳がぴんと立ち、尾がぱたぱたと動いている。嬉しいらしい。
「今のままならお姉ちゃんを独占できるってのに、おれっていい奴、おれってえらーい」
 やがてラグの体から顔を上げ、カヤナは上目遣いで言った。
「最近、誰もおれを構ってくれないんだ。おれ、都合のいい男で構わないから。はやく片付けてまた前みたいに遊んでよ。かわいがってよ。……ね、お姉ちゃん」
 最後に一人前の男のような台詞を残し、カヤナは尾を振りながら自分の部屋の方へと駆けていった。


 その夜、ラグが工房で仕事をしていると、ルーがひょっこりと顔を出した。
「……よう」
「久しぶりだね」
「なんだそりゃ。晩飯のときも会っただろうが。もう忘れたか?」
 幾分やつれた様子のルーは、力なく軽口を叩きつつ自分の作業机に陣取った。
 痩けたというわけではないが、目の下に浮かぶくまとだらしなく乱れた服が疲れた印象を与える。リトリアージュ王に連なる者の証だという金の髪も、残念ながらいろいろな方向にはねて収拾がつかなくなっていた。
「こうして、二人で話すのって久々のような気がして」
「そうか?」
 ルーは言いながら何かを机に広げていた。一枚の大きな紙――製図用の方眼紙のように見える。
「それ、何?」
「一応、今回の依頼の設計図。いや、そこまでは詰めてねえか。思いついた図案を殴り書きにしたやつだ」
 部屋に籠もっていたのは、鬱いでいたからだけではなく、自分の仕事も進めていたかららしい。何だかんだいって、ルーはこんなときにでも義理堅くて真面目だ。それは客と相対する機工の仕事をしていく上で、重要な長所でもある。
「とりあえず仮のものを早く作って、メルフィに見せに行くつもりだ。もちろん、お前も一緒に来いよ」
「私? 私なんかが、お姫さまの前に出ていいの?」
「共同制作者になるんだからな。……見るか、これ」
 ラグは自分の席を立ってルーの背後に回り込み、手元を覗き見た。
 方眼の上に、ただ一つだけ絵があった。殴り書きという言葉が似合わない繊細な線で、木の枝で寄り添い、羽を休める大小二羽の小鳥が描かれている。ルーの字で書き込まれた注釈には『枝はくろがね、鳥は金』とあった。
「置き時計にしようと思う」
「時計? 文字盤は?」
「ねえよ。囀りで時を知らせる仕掛けを仕込む。リトリアージュは時間の流れがやたら緩やかだからな。こんなふうに時を刻むものがないと、つい忘れちまうだろ」
「いい考えだと思うよ。……可愛い鳥。大きさが違うってことは、親子?」
「いいや。これは、レンとメルフィだ」
 ルーは小さく言った。枝の上には、ルー――兄妹を題材にするならば当然居ていいはずの長兄が、いなかった。
 知らなかったとはいえ、ラグは自分がルーには辛いはずの話題を引き当ててしまったことを猛烈に後悔していた。同時に、いちばん尋ねてみたかった話題に切り込むことができる、とも言える状況でもある。訊かれないことも辛いのだ、というカヤナとの会話を思い出して、ラグは思い切ることに決めた。
「ねえ、メルフィ姫ってどんな方?」
「『お姫様』を想像してみろ」
 ラグは言われたとおり、『メルフィ姫』を思い描いてみる。金色の長い髪に、同じく金色の睫毛に縁取られるのは潤んだ碧い瞳。ふわふわのドレスに華奢な体を包み、頭には冠を乗せた物静かな少女がそこにいた。
 夢見心地でお姫様を思い浮かべていたラグに、ルーはやや表情を和ませる。そして、よりによってルーはその顔で驚愕の一言を告げた。
「で、それをそのまま正反対にしろ」
「ええと、じゃあ短い髪に動きやすい服で走り回るような、おてんばな女の子?」
「そうだ。それでだいたい合ってる」
 『リトリアージュの人形姫』のおとぎ話が覆されたような気がしたが、おかげでラグは一気に現実へと戻ってくることができた。あれだけ仲が悪そうなルーとレンを含め、兄妹三人が三人とも一癖もふた癖もありそうだ、というところは似ている。
「じゃあ、エルレーン――レン様は?」
「あいつはこの前会ったそのままだよ。あれが素だ。少し変わってるけど、変人っぽいのもある意味王子らしいだろ?」
「変人ってほどでもなかったと思うけどな」
 変装が妙だったり、顔を隠しているわりには目立つ竜で街へとやってきたりとおかしな点はあるが、それはレンの『王子』という肩書きに傷を付けるようなものではなかったとラグは思っていた。優雅な立ち居振る舞いは王族として申し分ないものだったし、女性の扱いも完璧だった――ラグに対しては少々度を超してはいたが。
「そうか? あいつはああ見えて、王宮内のことはすべて完璧にこなす力を持ってる。ちょっとぐらい変わってても、それを帳消しにするくらいは働く」
「すごいんだ」
 探りながらの相槌が打ちにくい会話が続き、やはりやめておけば良かっただろうかとラグは考え始めていた。ルーとラグの知る事実の量が違いすぎて、文字通り、お話にならない。そこまでして聞き出すべきなのかという迷いや罪悪感のようなものも、相変わらず燻っていた。
 ルーはといえば、柔らかく微笑んでいたのはメルフィの話をしている間だけで、すぐに暗い瞳に逆戻りしていた。それでも、と、ラグは勇気を振り絞って尋ねる。
「ルーとレン様は二つ違いなんだよね? 弟ってどんな感じな――」
「気持ち悪ぃ」
 吐き捨てるように、ルーは呟いた。
 具合が悪いのかと、ラグは彼の様子を窺う。ルーは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、こちらを睨んでいた。ただ、視線はしっかりとラグに向いていたし、顔色もそう悪くはない。
 では、不機嫌だという意味だったのか。レンの話を振ったのがいけなかったのだろうか。
 ルーはラグと目が合うと、「脅えてんな?」と笑った。
 それは、レンが何度か見せたあの笑顔と全く同じ表情だった。
 二人とも、恐らくは自分の中にある感情とは別に笑うことができるように訓練したのだろう。裏を返せば、今のルーは笑いたい気持ちではないということでもある。それがラグには辛かった。
「気持ち悪ぃって言ったのは、いちばん大事なところを隠して話を続けてる、この状況のことだよ。それに甘えて、それでもいいかって思っちまう自分がとてつもなく嫌だ。……お前は悪くない。お前が普通に喋ってくれて、俺はほっとしてるし、嬉しいんだ」
「だって、ルー、言ってたじゃない。敬語は苦手だって」
「覚えてたのか。……ありがとな」
 細められた目は、潤んでいるように見えた。吊り上がった目が緩んで少し幼くなる、これがルー自身のいつもの笑いだ。ラグは久しぶりに――さっき、ルーには一蹴されたが――ほんとうに久々に、ルーの心を見たような気がした。
「ルー」
「何だよ」
「その顔が見られないのは、さびしいよ」
 ラグは、言いながら自分も微笑んだ。強張った頬をむりやり動かしてみただけだったけれど、とにかく笑った。声が震えないようにしっかり腹に力を入れ、続ける。
「私、前みたいにルーと一緒に勉強したり、仕事したりしたいけど、それはもう難しいのかな」
「……疲れてきたところだったんだ。逃げるのにも」
 ルーは問いには答えずに、しかし観念したかのように呟いた。机上の絵に目を落とし、ルーは小鳥を順に指していく。一羽、二羽と。
「メルフィーナ、エルレーン。二人は生まれも育ちも文句なく王宮。箱入りだ」
 次に指さすべき三羽目、ルーはそこにはいない。ルーは手持ちぶさたなのか、両の手を組むと話を続けた。
「俺は違う。……俺は、この街で生まれ育った。俺はそれでよかったんだけどよ。『人形姫』が、そうはさせてくれなかった」
 ルーは、がっくりと肩を落とした。