みどりのしずく

三羽の鳥【5】

 設計図ができるまでは時間はかかったものの、それからは早かった。
 試作品は、例え姫に差し戻されたとしても一から作り直すくらいの日を残してできあがった。その時計を手に、ラグはルーとともにメルフィーナ姫のもとへ出かけることになった。
 工房にはルーが呼んだという護衛の兵士たちが迎えに来て、ラグ達は護られながら宮殿へと向かった。敷地内に入ると、その数はさらに増した。兵士たちに阻まれ、それまでルーと隣り合って歩いていたラグとの間には距離が開く。
 周囲がルーをどう扱うのかを目の当たりにし、ラグはルーが王子なのだと改めて知ることとなった。ラグの中では依然ルーはルーのままだが、同時に彼がこの国にとってもっとも重要な人物でもあることも把握はしていたつもりだ。しかし、どこか納得していなかった部分があったのだろう。
 それが実際に見たことで、兄弟子と王子、これまで一致しなかった二人のルーが、ようやく一人になったとでも言ったらいいのだろうか。

 高い壁に囲まれた王宮にたどり着くには、堀にかかる跳ね橋を渡らなくてはならなかった。橋の下を覗き込んだラグに、ルーが振り向いて声を掛けてきた。
「落ちるなよ。淀んでて臭えぞ」
 その言いぶりを聞くかぎり、ルーはどうも落ちたことがあるらしい。
「落ちないよ」
「どうだか」
 ごつい甲冑で鎧われた兵士たちの隙間から、彼はにやりと笑ってみせる。
 ラグの先に立ち、迷うことなく足を進めるルー。久々の我が家のはずだが、ここでの暮らしはルーにとって苦しさと隣り合わせだったはずだ。今は明るい表情だが、胸の内ではいったい何を思っているのだろう。
 やがて橋を渡りきったラグは、城壁の内側を視界に捉えた。
 大きな建物が二棟、その間には中庭。そして、高い塔がひとつ。その周りを、外からは見えなかった低い壁が巡る。ラグが想像していたよりも少し地味なたたずまいは、表現するならばお城というよりも大豪邸というほうがしっくりくる。しかし、とにかく広い。
 きょろきょろしているラグを見かねてか、ルーが教えてくれた。
「右が儀式用で、左が住むところ。公的な場と私的な場を分けてんだとよ。今日は私的にメルフィに会うから、左だな。……塔は、兵の詰め所になってる。塔の地下は牢だ」
 城内の要所には警備の兵士が立ち、目を光らせている。ちょうど交代の時間なのか、持ち場を入れ替わる兵たちが塔から出てくるところだった。
 その中から、こちらに向かって手を振っている兵士がいる。
「おお! アルノルート様!」
「ジラデン!」
 白髪交じりの髭を蓄えた初老の男が、きびきびとした動きでルーの方へ歩み寄ってきた。直立して深々と頭を下げる。美しい所作だった。
「元気だったか」
「丈夫なだけが取り柄ですぞ。……今日はまた、どうして――もしや、私の稽古が懐かしくなりましたかな?」
「だったらいいんだけどな。メルフィに呼ばれたんだ」
「お誕生日に、何やらご所望だとは聞いております。さすがのアルノルート様も、姫には弱いとみえる」
「うるせえな」
 ルーは半目で兵士――ジラデンを睨む。一方のジラデンは目尻の笑い皺をより深くした。紋章の入った立派な鎧から受ける印象とは正反対の、柔らかい笑いだ。ルーとは気の置けない間柄らしい。ルーの話を聞いて、慣れない宮中、孤立無援で苦闘するルーを思い浮かべていたラグだが、城の中にもルーの味方はいるのだとほっとする。
「そちらのお嬢さんは」
「ライグってんだ。ライグ=ストロンド。先生のとこで、一緒に勉強してる。そいつには俺の正体はバレてるから、変に気を使う必要はねえぞ」
「一騒動あったようですな。……エルレーン様が頬を冷やしておられました」
 それは恐らく、ルーが殴りつけた後で腫れたのだろう。ルーはばつが悪そうに口を尖らせた。
 ジラデンは静かに微笑んでいたが、やがてラグの目をまっすぐに見て名乗った。
「ジラデン=ザノエドと申す。兵のまとめ役のようなものを仰せつかっております。お見知りおきを」
「ライグです。よろしくお願いします」
「そのうち、ゆっくり話したいもんだな。言いたいことはたくさんあるんだけどよ。今はとりあえず、行かねえと」
 ルーは心底残念そうだ。久々の帰宅――と言っていいのかは分からないが――なのだから、親しい人とは積もる話もあるだろう。
「私もそろそろ持ち場へ向かわねばなりませんので、お気遣いなく。……いつ帰ってきてもよろしいのですぞ。お待ち申しております」
「期待に添えるかどうか」
 ルーは苦笑いで「じゃあ、またな」と会話を締めた。ラグを促し、ルーは左の建物の方へと向かっていく。
 ちょうど、ルーの後ろにラグが付いて歩こうとしたそのとき、ラグの名を呼ぶ者があった。
「ライグ殿」
 ジラデンだ。ルーはそれには気付かず、すたすたと歩いていく。
 ジラデンは革の手袋に覆われた両手でラグの右手を取った。手袋の上からでも分かるごつごつとした手の感触は、いつかの夜に見たルーの手に似ている。剣を使う人間のものだ。
 その手が、今はラグの手を優しく包んでいる。
「アルノルート様を、どうぞよろしくお願いいたす」
 ジラデンは、握った手に頭がつくほどに深く頭を下げた。ラグがあたふたしていると、顔を上げたジラデンはどこか寂しげに語った。
「身の程知らずの不敬とはわきまえておるが、小さい頃から見守らせていただいて、まるでアルノルート様が本当の息子のように思えて――可愛くてのう。幸せを願わずには、おられんのですよ」
「……私も!」
 ラグの口から、不意に言葉が飛び出してきた。自ら驚きながらも、ラグはそれこそが自分の思いなのだと気付かされる。
「私もそうです。ルーが良ければ、それがいいです」
「そうか。ライグ殿も、そう思ってくださるのか」
 ジラデンは途端に破顔した。
「城から出ることで、アルノルート様は変わられた。ごく当たり前に、喋り、笑うようになられた。素晴らしいことです。……城の外にライグ殿のようなお人がいてくれて、本当にありがたい」
 もう一度深々と頭を垂れた後、ジラデンは駆け足で去っていった。仕事の時間には間に合うだろうかとその姿を目で追うラグを、今度はルーが呼んだ。
「おい、何やってんだ。迷子になっても知らねえぞ!」
 ルーは、すでに遙か向こう、目的の建物の前に立っている。追いつくから先に行って、というラグの声に頷くと、ルーはこちらにくるりと背を向けた。広い背中、とラグは思った。たとえ折れかけても潰れず藻掻く、強い背中だ。
 ――ルーがじっくり時間をかけて、自分の道を見つけられますように。その道を選ぶ自由を掴み取れますように。私は、その背中をそっと押す存在でありたい。いや、見守るだけでもいい。
 ただ、何があろうと心だけはいつも離れずその傍らにありたいと、ラグは静かに誓った。


「大(おお)兄さまが女の子連れてきた!」
 姫は、はじけるような笑顔で歓声を上げた。ルーが渋い顔で「お前なあ」と天を仰いだ。
「その呼び方はやめろ。……ほら、自己紹介くらいちゃんとしろ」
「メルフィです」
「違うだろ」
「……はじめまして。リトリアージュ王国は一の姫、メルフィーナ=アンレティナ=リトリアージュと申します。どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
 姫はすました顔でよそ行きの挨拶をすませると、再びきらきらと輝く目でラグを見つめた。
 ルーが前に言っていたとおり、メルフィ姫はレンに似た髪と目の色を持っていた。大きく波打つ髪の毛は銀に近い。肩よりも少し上くらいのところで揃えられ、ふわりと広がっている。活発そうな彼女にぴったりの潔い短さでいて、丸みもある髪型だった。瞳はやや緑がかった水色で、黄色い光が差した明け方の空のようだ。
「こちらこそ、はじめまして。ライグ=ストロンドと申します。アルノルート様――」
 少し腹に力を入れて、言い直す。
「ルーと、フィスタ=リューズの工房で一緒に学んでいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ!」
 姫は屈託無く笑った。恐らくはラグよりも三つ四つ歳下だろう。充ち満ちた好奇心を隠さない、年頃の女の子だ。ある意味すがすがしい様子に、ラグは逆に好感を持った。
 ルーは持ってきた包みを部屋のテーブルの上に置いたところだった。中身はもちろん、メルフィ姫への贈り物――小鳥時計の、試作品だ。
 姫はルーに駆け寄ると、その手を取ってせがんだ。
「ねえ大兄さま。見てもいい?」
「まだ試作だけどな」
 言いながらルーは包みを解いた。現れたのは、メルフィ姫でも楽に運べるくらいの大きさの置き時計だ。
 先日の図案通り、くろがねの木の枝に、リトリアージュの紋章――常緑の大樹――が刻まれた金の小鳥が二羽休んでいる。
 製作の工程のほぼすべてはルーによるものだった。魔法よりもむしろからくり細工で表現する部分が多い作品だが、大胆な仕掛けも、繊細な動きを生み出す細かな作業も、ルーは器用にこなしていた。流石にフィスタ並みとは行かないまでも、職人として一人立ちするには十分な腕だとラグは見ていた。本人は苦手と言ってはいたが、魔法だって十分に使いこなせる。
 それでも工房を出て行かないのは、修行を終えたらここへ――王宮に戻らなくてはならないからか。
「かっわいい!」
 すっかり考え事に没入していたラグは、メルフィ姫の歓声で我に返った。
 はしゃぐ姫はテーブルをぐるりと一周しながら時計を眺め、再び「可愛い!」と声を上げた。
「この小鳥、動くの?」
「時間が来ると、寄り添って囀る」
「そうなんだ! ……ね、これ、ほんとに全部大兄さまが作ったんだよね?」
「ああ。だって、そんな風に発注したのはお前だろ」
「その通りなんだけど、大兄さま、趣味が変わったなあって。前はこんなに可愛いものを思いつくような雰囲気じゃなかったもん。……今は、なんだか作るものに華があるよ」
 メルフィは何かを言いかけて飲み込んだように見えた。ルーはそれには気付かなかった様子で、「何だ、それ」と照れ臭そうに頭を掻いている。
 さっき、ジラデンも似たようなことを言っていた。それまでのルーがいったいどんな様子だったのか、ラグは知らない。しかし、いい方へと変化したのには間違いないようだ。
「これで良ければ、今度は完成品を持ってくるぜ」
「うん! ありがとう。楽しみにしてるね」
「……さて。本題は終わったが」
 一仕事終えたといった表情だったルーは、やがてきりりと口元を結んだ。気合いを入れ直した、といった顔に、ラグは首を傾げて尋ねる。
「まだ何かあるの」
「ちょっと野暮用がな」
「いいじゃない、ほんとのこと言えば。父さまに会うんでしょ?」
 口ごもるルーに代わり、メルフィがさらりと暴露した。
 普段のルーならば舌打ちでもするところだが、実際にはちょっとだけメルフィを睨んだだけだったから、これでもずいぶんと手加減している。メルフィはそんな態度など意にも介さず、からっとした声で言い返した。
「おせっかいかな? そんなにライグさんに内緒にしたかったの?」
「メルフィ、やめろ」
「親子ゲンカしに行くんでしょ。……大兄さまとお父様は仲が良くないから、会うといつもケンカになるの。仮にも一国の王と王位継承者なのに、二人とも子どもなの」
 メルフィは、まるで母親がやんちゃな息子たちのことを話すかのようにため息を吐き、苦笑いした。ラグは軽い驚きとともにそれを聞いた。ルーがただ怒りっぽくがさつなだけの青年でないのと同様に、年並みのおてんば姫のように見えたメルフィもまた、異なる顔を持つようだった。『王の家』という特殊な家庭環境がそうさせるのだろうか。
 事情はどうあれ、ルーにしてみれば自分と母親を捨てた父親だ。そして、ルーの中では過去のことはまだ消化されてはいない。引き取られて以降の数年間は、親子として一応は一緒に暮らしたことにはなるのだろうが、心を許し合う仲にはほど遠いのだろう。
 ルーが怒り出すかとラグがはらはらしていると、意外にも落ち着いた声がした。
「俺のことはどう言ってもいいが、こいつに余計なことを聞かせるな。人の分まで悩むやつだから。それに、そんなに大袈裟な喧嘩したことなんかねえぞ。人聞きの悪い噂を流すな」
「全然ケンカしないから、心配して言ってるんじゃない。大兄さまは人とぶつかるのが得意なんだから、父様とも正面から取っ組み合いしたらいいの! 徹底的にケンカして、納得して、やりたいようにすればいいんだよ。……私、もちろん大兄さまを応援するから」
 メルフィはルーを焚き付けるように言った。兄の立場を理解しているからこその後押しだろう。
 メルフィの言うとおり、国王との話し合いはルーが自らの道を見つけるには必要だとラグも思う。しかし、王との話次第では、ルーはすぐに工房を出ることになるかもしれない。
 それでも、強がりくらいは言わせてほしいと、ラグは胸の奥から勇気を持ち出してきた。
「行きなよ、ルー。気が済むまで喋ってきたらいいよ」
 もっと震えた声になるかと思ったら、思いのほか普通に口に出せた。ルーは驚いたかのように目を丸くしたが、すぐに口元を緩めた。
「お前は日が暮れる前に帰れ。きっと長話になるからな」
「でも」
「私は構わないよ。ここにいたらいいじゃない。……暗くなったらちゃんと工房まで送らせるから、大兄さまは心配しないで」
 ラグよりも早く、メルフィが答える。
 ラグはルーをまっすぐに見上げた。夜の闇のような濃い青の目は、静かに凪いでいる。
「……行ってらっしゃい。待ってるよ」
 ラグの見送りに「ああ」と頷き、ルーは部屋を出て行った。


「じっくり話し合ってくるだろうから遅くなると思いますけど、気楽に待っててくださいね」
 メルフィは、ルーに対するよりも少しだけ丁寧にラグに言った。
 通常、お姫さまの部屋で気楽に過ごすというのも無理な話なのだが、ラグにはメルフィの心遣いが嬉しかった。それにメルフィは、ラグが考える『悪い意味での高貴さ』などかけらも持たない少女で、『姫』という未知のものに対するラグの警戒心はすでに解けていた。
「こちらこそすっかりお邪魔して、すみません」
「とっても楽しいんですよ。私、大兄さまのことをお話しできるお友達、いないから。……ね、大兄さまの街での様子、聞かせてくれませんか? どんなことしてるのかなかなか教えてくれないんです。楽しそうだってことは分かるから、心配はしてないんですけど。ただでさえほとんど帰ってこないのに、たまに会っても笑ってはぐらかしてばっかり」
 ふくれっ面でメルフィが言った。
 メルフィは素直で気さくな娘で、大抵の人間となら仲良くなることができそうだった。しかし、彼女がいくら良い娘でも、王宮の中で親しい友人を作るのは難しいだろう。まして、兄弟たちのことについて気兼ねなく話せる友人となると、数はさらに少なくなる。
「ラグ、どうしたの?」
 不思議そうな顔で、メルフィはラグに尋ねた。名を呼ばれて、ラグは不覚にも感動を覚える。
「……あ、なれなれしかった、かな? ごめんなさい。よく兄さま達からも怒られるの」
「いいえ、とんでもないです! 嬉しかったので、つい。……私でいいなら、喜んで」
 これまでルーとともにしてきた仕事について語りながら、ラグは考えを巡らせていた。
 ラグは、恐らく本来ならば姫とは謁見すら叶わない、ただの町娘だ。例え言葉を交わす機会があったとしても、今のように対等に話すことはまずなかっただろう。それが、ルーの妹分であるというだけで姫の部屋に入り込み、お喋りするなどあり得ないことだ。
 そういえば、メルフィと同様に何のてらいもなく話しかけてきた王子が二人ほどいたな、とラグは思い返す。ルーとレンは、顔だけではなくそういうところもよく似ている。似すぎているから反目するのだろうか。
 メルフィは兄のことが知りたいのだ。兄妹だから。家族だから。
 では、ルーは? レンは?
 兄弟なのに、家族なのに、互いをもっと知りたい、分かり合いたいとは思わないのだろうか。