みどりのしずく

三羽の鳥【6】

 ラグとメルフィとの話は長くなったが、日が暮れてもルーは部屋に帰らなかった。ルーから先に工房に戻っていろと言われたのを思い出し、仕方なく帰途に着こうとするラグに、メルフィは名残惜しそうに言った。
「次はいつ来るの?」
「多分、あの時計が完成したときだと思います」
「そっか。……残念だなあ。今みたいな話、小(ちい)兄さまにも聞かせたいのに」
「レン様に、ルーの話をですか?」
 メルフィは、兄二人の間のきな臭い話を知らないのだろうか。それとも、知っていて敢えて言っているのだろうか。
 ルーからは、レンへの反感や憎しみを直接聞いたわけではない。しかし、レンはどうなのだろう。
 レンのルー評は馬鹿で不束な愚兄というものだったが、棘のある言葉は照れからくるものだとラグは思っていた。いや、思いたかった。
 では、ルーの言っていた『修羅場』はレンの差し金ではなかったというのか。レンでなければ、ルーの命を狙っていたのはいったい誰か。
 ラグがこうあって欲しいと願う筋書きでは、どこかに破綻が生じてしまう。だからといってすんなりと筋が通る台本を描けば、ルーとレンの仲がこれ以上良くなることはないという結論が出る。それは、ラグがもっとも受け入れたくない展開なのだった。
 口ごもるラグに、メルフィはあの口調――少し大人びた方のメルフィ――で答えた。
「大兄さまは、小兄さまとも仲が良くないから。ううん、こっそりケンカしてる、のかな? 二人とも私には秘密にしてるつもりなんだ。他のみんなも、私には聞かれないように気をつけてるみたいだけど、噂なんてやろうと思えばすぐ集まっちゃうでしょう。小兄さまが、大兄さまが跡を継ぐのを邪魔してるとか、大兄さまがそれを利用して、小兄さまを陥れるためにわざと家を出たとか。……みんな、勝手なことばかり言って、いやになっちゃう」
 ――この子は、ちゃんと分かっている。二人の兄の間の溝も、それを取り巻く周りの大人たちのことも。
 少し眉を寄せ、メルフィは言った。
「肝心の本人たちは何を考えてるのかなって、ずっと考えてた。だからね、こうして大兄さまのことを教えてもらうのは、すごく大切。……さっき時計を見てね、二羽しかいない――って思ったの。私への贈り物なんだから、少なくとも一羽は私で、残りは兄さまたちのどちらか。たぶん、小兄さまのほうでしょ、ラグ?」
「ええ。……そうです」
 知っている以上、答えないわけにはいかなかった。
 ラグの答えはメルフィにとっては予想通りだったらしい。メルフィはラグの一言を噛みしめるように何度か頷いた。
 そして口元だけで薄く微笑み、誰に問うというのでもなく独り言のように呟いた。
「大兄さまの鳥は、フィスタの家にいるのかな。もう、私や小兄さんとは一緒にいたくないのかな」
 まるで起伏のないメルフィの言葉に、ラグは言葉を失った。メルフィもまた、感情を表情の奥に押し込めることができる人間なのだ。
 メルフィのことをまったく考えていなかったわけではない。しかしラグは、彼女がこんなにも心を痛めていたと気付かなかった自分を叱りつけたくなった。年端もいかぬ少女が、初対面の町娘に悩みを吐露する。心の揺れを悟られぬよう、笑顔で。
 ――痛々しくて、見ていられないよ。
 レンの考えはともかく、少なくともメルフィはこんなにルーのことを思っている。きっと、ルーはそれを知らない。
『恐いんだよ』
 そして、ラグに表情を見られぬよう、顔を隠して弱音を漏らしたルーのことを――王になることは呪いだとため息を吐いたルーのことを、メルフィもレンも知らない。
 自分の知っていることをちょっとだけ教えてあげてもいいだろうか。ルーの腹の中はまだ分からないけれど、メルフィなら何かヒントになることを汲み上げることができるかもしれない。それで少しでもメルフィが楽になるのなら。
「ルーがこういう立場の人だということを私が聞かされたのは、つい最近なんです。エルレーン様が時計をご依頼にいらっしゃった日に」
「大兄さま、秘密にしてたんでしょう? 小兄さまが喋ったのね」
 メルフィは空色の目をつり上げて憤りを露わにしている。あからさまに肯定するのも火に油だと、ラグは敢えて無視して先を急いだ。
「私、まだ気持ちを整理できてないんです。事実を理解するので精一杯で、ルーがどうしたいのかまで考える余裕がなくて。……ルーのことだから、はっきりと腹が決まるまでは口には出さないと思いますが。でも――」
 ちょうどラグの話を遮るように、ノックの音が三度聞こえた。
「大兄さまかな?」
「ルーでしょうか」
 顔を見合わせたメルフィとラグの呟きは、ほぼ同時だった。メルフィが「はやくはやく」と侍女を急かして、内から扉を開けさせる。
 部屋に入ってきたのは、金色ではなくしろがね色の青年だった。ラグは少しだけがっかりしてから、レンに失礼だと唇を噛んだ。
「小兄さま!」
「その呼び方はやめろといつも言っているだろう」
 レンはすぐにラグに気付き、手を取って口づけた。この挨拶にまだ慣れることができないラグは、頬の赤みを悟られないよう俯いた。
「久しいな、ライグ」
「こんばんは、レン様」
「健やかそうで何より」
 先日のようににこやかに微笑んでいるものと思ったが、レンは硬い表情で部屋を見回している。
「残念だが、今日は君と楽しくお茶を飲む時間はないようだ。君が来ているということは、あいつもいるのだろう?」
「大兄さまなら、父さまに会いに行ってるよ」
「父上に? 何の用だ?」
「親子ゲンカ」
 レンはまるで頭痛をこらえるように額に手をやった。鋭い目をさらに尖らせてメルフィを睨む。
「どうせ、お前がけしかけたんだろう?」
「小兄さまだって言ってたじゃない。大兄さまは一度、父さまと話し合うべきなんだって」
「そんなことは言っていない。見て見ぬ振りをしているうちは、それこそ話にならないと言ったまでだ。……しかし、顔を合わせること自体が進歩か」
 レンは肩をすくめた。
 レンがルーについて語っているということが、ラグについては驚きだった。
 考えたくはないけれど、もしかしたら――実の兄を亡きものにしようとしているかもしれない弟が、何食わぬ顔をして妹とその兄の話をする。
 果たして、そんなことがあるのだろうか。ルーとレンの溝が深くありませんようにと願うラグの気持ちが、目の前の光景を都合良く歪めているのか。それとも、レンは本当にルーをそう悪く思ってはおらず、ごく普通に話に出すような存在であるということか。
 考えれば考えるほど、ラグには分からなくなる。
「どういう心境の変化があったのかは知らないがな」
 皮肉っぽく会話を流そうとするレンに対して、メルフィは真顔で食い下がる。
「フィスタのところに行って、大兄さまは変わったんだよ」
「どこがだ?」
「昔の大兄さまはもっと冷たく尖ってた。でも何に腹を立ててるかは分からないけど、内心はいつも怒ってたの。うーん――冷め切ってるように見えて、飲むと大火傷するスープみたいな感じ。今は、ちゃんと見た目も熱くて、飲んでも熱いスープ」
「お前の例え話は分かりにくい。どうして食べ物なんだ」
 レンは再び頭を抱えた。
 メルフィが生まれたのは、ルーが引き取られて『王子』となった頃。彼女は、感情を殺して笑うようになったルーしか知らなかったのだ。昔のルーはきっと、負の心を静かにため込んでいたのだろう。
 ラグの知るルーは、自分の心を外に出す。それは当たり前のことのようで、実際にやろうとするととても難しい。ラグもリュエット以外の人間を拒んでいた時期があったから、何となく分かる。
 ならば、フィスタかエスか――ルーにも、心を預けてもいいと思える人が現れたのだ。胸の内をさらけ出しても独りにならないという自信は、希望になり、力になる。そんな素直さすら忘れてしまうほど、過去のルーは荒んでいたのかもしれない。
「あ、そうだ! 小兄さま、大兄さまの内緒の話をラグに喋っちゃったんですってね」
「悪いとは思っていないぞ」
「悪いわ」
「手段はどうあれ、アルノルートは動かざるを得なくなっただろう。目論見通りだ」
「でも――あの後、ルーがどれほど辛そうだったか!」
 ラグは黙っていられず、つい口を挟んでしまった。
 真意はともあれ、レンはどうにかしてルーに行動を起こさせたかった――ルーの気持ちを確かめたかったということだろう。
 その言い分もわからないわけではない。しかし、憔悴しきったルーの姿を思い浮かべれば、もっと別のやり方はなかったのだろうかと考えてしまう。王子に意見することに躊躇はあったけれど、それを言うならルーだって王子には違いない。
 ――ルーとなら散々やりあってきた。レンとだって、きっと似たようなものだ。
 表情を変えないレンに、ラグは続けた。
「ルーは私と約束してました。話したいことがあるから、近いうちに時間をくれ、って。私は、できることならルーから聞きたかった。……でも、それはもうかないません」
「そうか」
 レンは素っ気なくそう言った。一瞬だけ目を伏せたように見えたのは、ラグを咎めたのか、ルーに思いを寄せたのか。
 メルフィが、レンの方に一歩踏み出した。
「私ね、大兄さまの作ったものを見たら、小兄さまもお父さまも認めてくれるんじゃないかって思って、今回の贈り物を頼んだの。大兄さま、こんなに素敵なものを作れる立派な機工師なんだもん。機工が、大好きなんだよ」
「私が、そんなことも分からないと思っているのか。見ていれば嫌でも――」
「だから、小兄さまが邪魔しなくったって、大兄さまは王になんかならない。みんな言ってるよ。小兄さまは、自分が王になりたいから大兄さまの命を狙って、とうとう追い出したって!」
 メルフィはもはや笑ってはおらず、悲鳴のような声を絞り出して叫んでいた。
「嘘だよね? いくら仲が悪くたって、そんなことしないよね?」
「私が嘘だと言って、お前はそれを信じるのか、メルフィ」
「信じるよ」
 迷いなく、大きく頷くメルフィ。メルフィもラグと同様に、二人の仲がこれ以上拗れぬよう『信じたい』のだ。
 しかし、レンは嘘だとも本当だとも言わなかった。その代わりに、淡々と呟く。
「アルノルートがこの城からいなくなったとしても、私に奴の代わりは無理だ。私に決定的に欠けているものを、アルノルートは持っている」
 ラグは目を見開いて、レンを見た。
 ルーを追い出してもレンは王になることはできない。つまり、レン自身はそんな無駄なことはしないと、そう言ったのか。
 ラグはレンの顔色をうかがうが、涼しげな表情はまるで変わらない。メルフィとは対照的に、レンは冷静に語り続ける。
「アルノルートには、国を治めるのに必要な最大の武器――人形姫の姿があるからな。あれはこの国の中だけではなく、大陸すべての者たちを黙らせる圧力になる。リトリアージュが培ってきた歴史の賜物だ。……アルノルートが後を継がなくていいものならば、とうの昔にそう決まっているはず。しかしそうはなっていないだろう? 街で育とうと機工師としての腕が良かろうと、リトリアージュの血は奴を縛るのだ。足掻く時間が勿体ない。そんな暇があるなら、一刻も早く帝王学でも学ぶべきだったのだ!」
 レンはやや荒い口調で言い終え、はっとしたように大きく瞬きをすると、それきり口を噤んでしまった。
 レンは、ルーが王になることについて肯定的――なのだろうか。レンの真意を掴みかね、ラグは知らず眉を寄せていた。
「……小兄さま?」
 メルフィも、これまでとは少し異なるレンの態度に困惑気味のようだった。彼女もしばらくレンの表情を注意深く窺っていたが、やがて諦めたのか小さくため息を吐いた。
 そして今度は思い出したようにラグを見やった。
「そういえばラグ、さっき何か言いかけてた。小兄さまが入ってきたから、途中までしか聞いていないわ」
「途中?」
「えっと、『ルーのことだから』って言って、その続きがまだ」
「あ、思い出しました」
 レンがこの部屋に来る前、ラグはラグなりにルーが今何を思っているか想像してみた――その結論をメルフィに話そうとしていたのだった。レンが来た今こそ言っておいた方がいいと、ラグは敢えてレンに向けて自分の思いを告げる。
「ルーはあれ以来――レン様が私に、ルーの本当の身分について話した日ですが――ずっと、何かを考えています。もし、心の底からこのお城が嫌いで未練がないなら、そんなふうに深く悩んだりしないだろうし、今回の姫からの依頼もお断りしたと思います。ルーは、そのくらい潔くて思い切りがいい人ですから。そうしないのは、多分まだ迷っているからだと、思うんです。……どっちかを選ぶって、裏を返せば『どちらかを選ばない』ってことですよね? ルーはきっと、フィスタ先生やエスも、レン様やメルフィ様も――どっちの家族も、捨てたくないんです。多分、どちらも好きなんです」
 レンは僅かに目を細めた。メルフィはやや潤んだ瞳でラグを見ている。
「レン様はそんな時間は惜しいとおっしゃるかもしれませんが、私は、ルーが悩みたいだけ悩み抜いて欲しいなって思います。その結果、それがどんな答えでも応援したいです」
「もし、街を出て王になるという結果でも」
「はい」
「寂しくはないのか」
「寂しいですよ!」
 抑えていたつもりの声が、思わず揺れた。深呼吸を一つして、ラグは静かに先を続ける。
「……でも、ルーがそう考えたのなら」
「仕方ない、か」
「いいえ。それがいちばんなんです」
 ラグの胸はぎゅっと痛んだが、レンの問いかけには笑顔で答えることができた。
 ルー自身が納得して出した答えならば、ラグも納得できる。いや、納得するために精一杯努力しようと思う。ルーが迷いを持ったままでなんとなくどちらかを選ぶことだけは嫌だった。
 レンは肩をすくめると、ふと頬を緩めた。
「ライグは、やはり私が見込んだだけのことはあるな。アルノルートも、さぞかし――救われていることだろう。羨ましい限りだ」
 レンはいつものように優しくラグの手を取ったが、口づけることはしなかった。何か合図があったのか、控えていた侍女が慌てて部屋を出て行く。
「もうだいぶ遅い。手配をさせたから、君はそろそろ帰れ。アルノルートは私が責任を持ってフィスタの家に送り届ける。……次までには、護衛の兵などつけぬでも気軽に来られるようにしておこう。あんな兄に、あのように仰々しい人数を割くのも勿体ないからな。なかなか思うとおりにはいかないのだが」
「何を、ですか」
 まさか、暗殺が――というわけではあるまい。
 そもそも、レンがルーに刺客を差し向けたというのは、あくまでも推測だった。ルーもメルフィもレンが黒幕だという証拠を掴んではいないし、レンの話を聞いていると、彼が犯人だとはどうも思えないのだ。
 ――では、レンでないとすると一体誰が?
 護衛がいらなくなるとはどういうことなのか。
 ラグとルーが次に城を訪れるのは、メルフィに誕生日の贈り物を届ける日だ。それまでに、城の内部で何かが起きるのだろうか。
 ラグの手を包むレンの手に、ちょっとだけ力がこもった。ラグが驚いてレンを見ると、彼はこれまでに見たことのない表情を浮かべていた。
「今は――そうだな、秘密だ」
 唇に人差し指を当て、ごく普通の少年のようにいたずらっぽく笑っている。その顔は、ルーによく似ていた。
 ――レン様は、何かしようとしている。おそらくは、ルーのために。
「いつか、内緒じゃなくなるときがきたら教えてくださいね」
「心得た」
 レンはそう言うと、「そこまで見送ろう」と自ら部屋の扉を開けてくれた。