みどりのしずく

三羽の鳥【7】

 工房の作業台に伏したラグの傍らで、城から持ち帰ってきた小鳥の時計が囀りを始めた。
 眠っていたわけではなかったが、考えごとをしていたラグはその賑やかな声に飛び上がらんばかりに驚いた。どうやら日付が変わったことを告げたらしく、銀色の小鳥たちは仲睦まじく寄り添って鳴いていた。姿は微笑ましいけれど、静かに過ごしたい夜にこれは少し――いやかなり姦しい。
 メルフィは親子ゲンカと言っていたが、実際はそう単純に片付けられるものではなかったのだろう。しばらく断絶していた王と王子の話し合い、まして片方はルーなのだ。穏やかに済むはずがない。
「……遅いなあ」
 心の中だけのつもりがつい口に出してしまい、あわてて口を押さえる。しかし、それを聞く者は誰もいない。
 夜が更ける前は他のみんなも一緒に待っていたものの、結局はラグに任せると言って自室へと戻っていた。ラグはそれを、ルーへ寄せる信頼ゆえのことなのだろう、と解釈していた。
 もちろん、ラグだってルーを信頼していないわけがない。ただ、それよりも不安の方がラグの中で大きいというだけで。
 鳥たちが離ればなれの定位置に戻るのを見届けて、ラグは軽く目を閉じた。
 うたた寝でもできれば何も考えずに済んで良かったのだが、そんな余裕もなく、時間とともにもやもやしたものが募っていった。


 眠れずに、どれだけ経っただろうか。
 まだ夜は明けていなかったが、夜の底は越えた頃合い。
 工房の外で、僅かな金属音がした。ラグは聞き取るやいなや玄関へと駆け寄り、内側から扉に手を掛けた。
 開いた扉の向こうに立っていたのは、ルーだった。ルーは多少疲れているようには見えたが、ラグを認めると笑って首を傾げた。
「なんだ。どうした? こんな遅くに」
「待ってた」
「……待って、た?」
 ルーは目を丸くして聞き返す。驚きの表情はやがて笑顔に変わり、彼は「あはは」と声を上げた。張り詰めた気持ちでいたせいなのか、ルーの笑い声を聞いたとたん、ラグの体からは一気に力が抜ける。
 それでも、これだけはと心に決めていた一言だけは忘れなかった。
「おかえりなさい」
 ラグの声に、ルーの吊り気味の目尻がぐっと下がった。ルーは笑いでもなく、悲しみでも不安でもない、不思議な表情を浮かべていた。
 頭半分高い場所から声がする。
「ほんと――馬っ鹿だなあ、お前」
 ラグの視界が急に暗くなった。一瞬置いて、ルーがラグのすぐ側まで一足に近づいてきたのだと気付く。
「馬鹿なんて言わなくても――」
 言い返そうと思ったときにはすでに、ルーの腕がラグの背に回っていた。もう片方の手は、背中ではなく頭を抱え込むように支えている。
 強い力で持ち上げられるような格好になり、ラグの足は半ば浮いていた。身動きを取ることもままならず、浅い呼吸が精一杯。一方、伝わってくるルーの鼓動はひどく遅く、早鐘のように打っているラグのそれとは対照的で、ラグは途端に恥ずかしくなった。
「お前の顔見ると、帰ってきたなって思うよ」
 返事をしようと口を開いたものの、胸が詰まって何も言えなくなってしまった。なぜだか泣きたい気分にもかかわらず、涙はさっぱり出ない。
 そうこうしている間に、ぴったりと合わさっていた胸の辺りが少し緩んだ。ルーは深く息を吐き、しばらく黙り込んでいたが、やがてそっと腕を緩めてくれた。ただし、ラグが抜け出せない程度に。
 一つ一つの音を確かめるように、ルーはゆっくりと言った。
「ただいま」
 耳元で聞く彼の穏やかな呼吸はラグの心にも染み渡り、ラグはやっと、まともに思考できるくらいの落ち着きを取り戻す。すっきりした頭で思うのは、ルーがちゃんと工房に帰ってきたという事実。
 それと、もう一つ。 
 ――やっぱり、私はルーにいなくなって欲しくないんだ。自分が思ってたよりも、ずっと。
 それでもラグは言うだろう。『どんな結論でも、ルーがしたいようにするのが、いちばんいい』と。

 ルーは腕を解くと接客用の椅子に崩れ落ちるように身を沈めた。ラグもその向かいに座る。
 柔らかな椅子に深く掛けたルーはそのまま眠ってしまうのではないかとも思ったが、目は冴えているらしく、すぐにでも寝るという状況ではなさそうだった。親子ゲンカとやらには随分長くかかったようだったが、何かしらの結論は出たのだろうか。もちろん気にはなるけれど、ラグは聞けずにいた。
 もじもじと視線をさまよわせていると、ルーと目が合った。ルーは、器用にも片方の眉だけをぴくりと動かした。
「なんか聞きてえことねえのかよ」
「言いたいことはあるんだけど」
「言えばいいだろ」
「では僭越ながら申し上げますが――痛っ」
 おどけてうやうやしく言うと、ルーはわざわざ立ち上がってラグの額をはたいた。
「普通にしろ、普通に」
 さっきまでの扱いとはえらい違いだとラグは怒ろうとしたが、何だか頬が赤くなってしまってどうにも締まらない。ルーはといえば、やはり怒ったふりをしてこちらを睨んでいた。
 作業台に置かれた時計とルーを見比べながら、ラグは口を開いた。
「この鳥、三羽にしちゃ駄目かな」
 ルーは、今度は両眉をきゅっと寄せた。無言ではあるが、拒絶の意志は明らかだった。
 今にも心を閉じそうなルー。しかしラグは、自分が感じ取ったルーの弟妹たちの気持ちをなんとかして伝えたかった。ルーの未来をルー自身が決めるには、情報は多い方がいい。機工師になるにも王になるにも、味方はすぐそばにいるのだと知らせておきたい。
「私が言うことじゃないとは思うんだけど。……お城の中にも、ルーがいる場所はちゃんとあるように見えたよ。レン様もメルフィ様も、それからジラデンさんも、みんなルーのこと心配してた。特にメルフィ様は、とても辛そうだった」
「メルフィはそうだろうな。……レンも?」
「レン様は、自分よりもルーが王になるべきだって言ってたよ」
 ルーは、途端に表情を強ばらせた。
「ルーのその姿はきっと国を治めるのに役立つ、自分にはそれがないから無理だって。ルーがどれだけ機工師になりたいのかも知ってるけど、周りがそうはさせないだろうって」
「まさか」
「私には、レン様がルーを狙ってたとはどうしても思えないの。レン様は、ルーと私が次にお城に行くときには護衛なしで大丈夫なようにするって言ってた。それって、もしレン様本人が黒幕だったらおかしいよね? もちろん、わざと『あれ?』って思わせるような言い方をしたってことも考えられるけど。素直に受け取るなら、レン様は犯人に繋がる何かを知ってて、一人でけりをつけようとしてるんじゃないかな。一度、メルフィ様ともレン様と、ちゃんとお話ししてみたら? ……お父様とも、お話できたんでしょ?」
「話と言っていいのかは分からねえけど、言葉は交わしてきたな。……見限るのには十分だった」
 絶望的な中身のわりには楽観的な口調で、ルーは言った。
「おかげで決心は付いたけどよ。メルフィや――レンとも、相談しなきゃなんねえだろうな」
 これからの身の振り方のことを指しているのだろうけれど、ラグは何も言わずに待った。先日はレンが喋ってしまったから、今度こそルーの口から聞きたかった。
 ルーは「なあ」とラグに呼びかけた。
「機工は人を幸せにするんだろ? ……俺たち機工師は、誰かの嬉しそうな顔が見たくて頑張るんだ。そうだな」
 それは、フィスタの口癖だ。
 ルーは、怖いくらい真剣な表情でラグを見つめている。真意を掴みかねながらも、ラグは頷いた。
 やがて、ルーは震える唇をゆっくりと動かした。

「俺は城に戻って、王になろうと思う」

 聞こうと意識するまでもなく、ルーの声はラグの頭の中にこだました。ある程度予想はしていたつもりだったけれど、いざその場面になってみれば、鳥の羽より軽いラグの覚悟などはどこかに飛んでいってしまっていた。
「もしかしたら、もっともっと沢山の人に幸せを届けられるかもしれねえ。例えば亜人の森や、ソラルセンや、北の国にも。ある程度の権力と、呪いたいくらい長い時と、やる気があればな。……今の王にはやる気はないらしいが、俺にはある」
 ラグは息を飲む。
 人間に奪われたカヤナのふるさと。工房で匿った歌姫、アカネのふるさと。戦禍でずたずたになった、ラグのふるさと。ルーは、それらをすべて『幸せにしたい』と言っているのだった。
 ただ、次に彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「でもよ、俺は機工師にもなりてえんだ」
「……どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。機工師になってから王になるってこと――順番が逆だって構わねえけど、どうしたら人を幸せにできるのか、もっと知っておきたいからな。きちんと技を修めてから、ここを出て城に行く。そして機が熟すまで待つ」
 逆に言えば、今しばらくは工房にいる、ということだ。
 ――それに安堵する自分は最低だ。
 ルーが決断した道を応援すると決めたはずなのに、同じ心の中には、そんなのは綺麗事だ、と喚き散らしてしまいそうな自分もいる。どちらも本当で、どちらも嘘だ。
 ルーはどうか。王になりたいと、心の底から迷いなく望んでいるのだろうか。それとも未だに悩みながらも『呪いの生』を選ぶことにしたのだろうか。
 どちらなのかと探るようにルーの顔を覗き込むが、普段が表情豊かなだけに、今の鎧われた表情からその心を窺うのは難しい。
 それは、ルーの固い決意の表れでもあった。彼はやる気になったのだ。
 機工師になるというかねてからの夢はもちろん、この国を背負うということにもう、振り向かず迷わず進んでいくのだろう。
 もともと、兄弟子であることもあり、ルーがラグよりも早く工房を去ることになるのは分かっていた。別れがこんな形になるとは――もっとも、まだ少し先の話になるようだけれど――想像もしていなかったが。
 ――私は普通に生きて普通に死ぬ。ルーは『普通』を許されない立場になる。いずれ、道は分かれるのだ。
 そういうラグ自身だって師匠やエス、カヤナと離れ、いつかは独り立ちするのだ。そのときまではこの工房での一日一日をより大事に、悔いの残らないように過ごしていかなくてはと、ラグは決意を新たにする。
 そして今は、ルーに余計な迷いの種を増やさないことも目標の一つだ。
 ――彼はきっと、いい王になるだろう。自分がルーの足を引っ張るとこの国の幸せな未来が奪われる。
 ラグは、腹の底の、さらに底にある本音だけは出さないよう、注意深く語った。
「私もルーには機工師にも王様にも、どっちにもなって欲しい。いっぱい勉強していいと思うよ。修行中なんだから。それと、私にできることがあったら言ってね。……役に立てる自信はないんだけど」
「お前って、ほんとお人好しの馬鹿だなあ。お前は十分すぎるくらい役に立ってんだよ。気付いてないのがきっとお前のいいとこなんだろうぜ」
 役に立っているなら馬鹿でいいと、ラグは胸に沁み渡る声を噛み締める。これまでも、ルーがさりげなく紡ぐ言葉はときにラグの心に深く入り込んできたが、ずいぶん久々のような気がしていた。近頃は彼もラグも地に足がついておらず、こうして向かい合う余裕すらなかったのだ。
 ルーは例の時計に目をやると、不敵に口元を歪めた。
「三羽にする。無理やりにでも自分の居場所を作ってやる」
「無理やりじゃなくたって、ルーを迎え入れてくれる人はいるよ」
「敵だけじゃないってことは知ってるさ。……俺だって、本当は三人一緒の方がいいってことだ」
 ルーはぼそりと独り言のように呟き、先を続ける。
「ただ、こうやって、前向きになったとこを見せてやろうと思ったんだよ、お前にもな。その――心配掛けたみたいだし。……いろいろ、悪かったな」
 ルーは椅子にふんぞり返った。殊勝な言葉とは噛み合わない態度が、逆にルーらしい。
「心配は、そんなにしてないよ。元気がなさそうだったから、少し寂しかったけど」
「……そういうのが、馬鹿だって」
 ルーはくすぐったそうに顔を歪めた。
 ラグは、昨日ルーを取り囲んだ護衛の数を思い出し、彼を間近で見られるのはあとどれくらいなのだろう、と僅かに眉を寄せた。
 淀んだ気持ちを振り払うように、明るく切り出す。
「もう一つ、絶対言っておかなくちゃいけないことがあったんだ」
「何だ? もう、この際だから何でも言え」
「あの時計、さっきいきなり鳴いて、びっくりして――目が覚めちゃった。夜は静かにさせた方がいいよ」
「なんだよ。寝ないで待ってたとか言うから健気にしててやったのに、しっかり寝てたんじゃねえか」
 ルーは苦笑いで不満を漏らした。
 自分にもちゃんとできたのだろうか、とラグは心の中で首を傾げる。
 ――三羽の鳥たちと同じように、濡れた心を笑顔で隠す術。前よりはましになったと思うのだけれど。