みどりのしずく

三羽の鳥【8】

 レンが工房にやってきたのは、メルフィの誕生日まで数日という午後。
 ちょうど、彼が苦手にしているというフィスタが留守の時間帯だった。案外、レンは本当にフィスタのいない時間帯を狙ってやってきたのかもしれないと、ラグが邪推したほどだ。
 レンを迎え入れたのは前回同様ラグだったが、今度はルーと間違えることなく案内することができた。
 レンはようやく『お忍び』という言葉の本来の意味を思い出したのか、今回連れていたのは路地に繋ぐことができる程度の大きさの竜だった。服も、先日と比べると目立たない色や形になっている。彼は彼なりに学習したのだろうとラグは微笑ましく思った。

「お前もここにいろ」
 前回同様にお茶を出した後、席を外そうとしたラグをルーが呼び止めた。
 今日は恐らく、先日よりもひとつ踏み込んだ話になるだろう、とラグは直感していた。
 彼ら兄弟の話は、そのままこの国の重要な機密事項にもなりかねない。それは自分が聞くべきことではないだろうと、早々に引っ込むつもりだったのだが。
「ほら、隣。座れ」
 でも、と口ごもるラグの意向など無視して、ルーは自らの隣の席を示す。
 困ったラグがルーの顔を覗き込むと、彼は「迷うことなんかねえだろ」と笑った。それでもまだラグが首を傾げていると、ルーはさらに付け加えた。
「これは、俺が――俺と先生、それにお前が受けた仕事の話なんだ。少々面倒な事情が絡んでるがな。顛末を見届けるのが筋ってもんだろう?」
 その言葉で、ラグの中では何かが切り替わった。もちろん忘れていたわけではなかったけれど、ルーをはじめとした三兄妹の思いに気をやりすぎていたせいか、仕事だという意識が薄れていたのも事実だった。
 まずは、頼まれたものをご希望通りに仕上げてこそ、機工師。もちろん、その過程でお客様の心を癒すことができるのならそれに越したことはない。
 うん、と頷いて向かいに座ったラグ、そしてルーを順に見て、レンは依頼主として当然の質問を口にした。
「ちゃんと完成したのか」
「完成まであと少しだ。どうしても必要な手順がある。……話を、聞いてくれ」
「嫌だと言ったら」
「言わせねえ」
 ルーはきっぱりと否定した。
「職人と客が同じものを目指さねえと、いいものは作れねえ。それには客の協力も必要なんだよ。……メルフィのためといえば、お前は断れねえな?」
「わかった。……聞こう」
 レンが依頼を持ってきたときと似たやりとりだが、攻守が逆転している。
 表情は大きく変えないながらも少し悔しそうにも見えるレン。その様子に、ラグは違和感を覚えた。いつもの彼ならばルーを黙らせる皮肉のひとつくらいは言いそうなものだが、今日はそれがなかった。

 ルーがレンに告げたのは、単純明快な一言だった。
「親父の跡を継ぎてえんだ」
 レンは無言でルーを一瞥すると、すぐにすうと目を閉じた。
「親父が治める間、いろいろとあったみたいだからな。国の中はもちろん、外も。自分ができることなら、力の限りやる。この手がすくい上げることができるものなら、もう零したくねえ。……できる限りたくさんの人間の――幸せのために。この大国の力があれば、できる。そう信じて、そう決めたんだ」
「そんなものは綺麗事だ」
「なら、全部綺麗にしてやる」
「綺麗な国など、あり得ない!」
 そう叫んだ後、レンははっとした顔で口をつぐんだ。
「……レン様?」
 普段、言葉に詰まることなどほとんどないレンが、俯いて黙り込んでいる。ルーもレンの態度に一旦は首を傾げたが、反論が止んだと見て再び話し出す。
「遅すぎる決断だと思ってる。逃げてもどうにもならねえことは、もうずっとずっと前から知ってた。『運命』とやらに抗ってみた反面、この姿をしている限りは、いつかそうなることが当たり前なんだと――どこかで諦めてもいた。……でもな。見て、聞いたんだ。年端もいかない子供、異能のために狩られた村の生き残り、それを探し続けて旅をする男。そんなの駄目だ。もうそんなのはごめんだ」
 ルーは一気に言うと、大きく息を吸い込んだ。
「俺は、王になりたい」
 ――王に。
 覚悟はできていたつもりだったが、改めて聞いたとたんに再び心がざわつき出し、ラグは思わず顔をしかめた。
「レン。俺のわがままでさんざん振り回して、公的なことは全部任せきりにして。どれほど詫びればいいのか分かんねえ。……けど、ごめんな」
 ルーは彼らしく、飾り気のない謝罪を述べた。レンを見据えたまま、しかしぎゅっと寄った眉から彼の苦悩が見て取れる。
 レンはやがて顔を上げ、うっすらと目を開いた。その弱々しさに、ラグはこれまでにない雰囲気を感じて息をのむ。ここ最近のルーよりもさらに追い詰められ憔悴しきった、光の灯らない瞳だ。
 ほとんど表情のなかった顔が突然歪んだかと思うと、レンは椅子から立った。そして、ルーの前に跪き、深く頭を垂れる。レンが誰かに頭を下げるなど想像もできなかったから、ラグはもちろん、ルーも仰天してしばし動きを忘れた。
「レン様?」
「何の真似だ?」
 ラグとルーがそれぞれ尋ねてみても、レンの姿勢は変わらない。額を床に擦り、呻くように言った。
「私こそ、詫びなければならない」
「詫びるって?」
「王位継承者の――お前の命を狙っていた者について」
「……知ってるってのか」
 ルーの顔つきが途端に厳しくなる。レンが犯人だったのかと暗に問うているのだ。
 レンはやがて、そのままの格好でぽつりと告げた。
「お前の命を脅かし城から追いやったのは、フロレナ=リトリアージュ」
「フロレナ――フロレナ義母さん?」
 そう復唱して、ルーは力なく長椅子に身体を投げ出した。隣の、ラグが座るクッションまで沈むほどに深く。
 レンが絞り出すように口にしたのは、リトリアージュ王の側室の名だった。ルーが以前言っていた『随分大層なお家柄』の娘。そして、レンの母親であり、ルーの義母。
 血は繋がらなくとも『母』と呼ぶひとに狙われていたと知って、ルーは何を思うだろう。
 そっと伸ばしたラグの手が、冷たいものに触れた。
 ――ルーの手だ。
 なぜだか、繋がなくては、と思った。半ば反射的にぎゅっと掴むと、ルーははっとしたように身体を震わせた。一呼吸おいて、ルーと目が合う。
「なんだよ」
 こちらを見て頷く顔はうっすらと笑っていて、ラグが心配していたような危うさはない。例えやせ我慢だとしても、本当にどん底にいるときのルーは虚勢を張る元気すらなかった。だから、きっと本当に大丈夫なのだろう。
 レンが跪いたまま僅かに頭を上げた。こちらはルーと違って顔色も悪く、少しやつれたように見える。
「世継ぎと思って産んだ子の私が『薄かった』せいで、母は心を病んでいった。静かに静かに――私が気付かないほど静かにな。……やがて、私を王にするためにルーを弑する、それが母の中で日常になった。そう、思いこんでしまったのだ。それ以外の部分は、普段とまったく変わりなかったというのに」
「気が触れてるのか? それとも、正気なのか?」
「あなただったのか、と尋ねたら、頷いたよ。笑顔でな。……フロレナはいま、牢の中だ。誰にも分からぬよう、私が地下に連れて行った――いずれ知られるだろうが。相変わらず微笑んでいる」
 そう言ったレンも、力なく笑った。
 高い塔は兵の詰め所。そして、その地下に拡がる暗く牢。石造りの冷たい部屋で穏やかに微笑を浮かべる王妃の姿を思い浮かべ、ラグはつい身震いした。
「これまで、似たような企みは何度も潰してきた。それらは母とは無関係だった――はずだ。もっとも、探っても分からなかっただけで、母と繋がっていた可能性も捨てきれないがな。調べ直してみれば新しいことが出るかもしれん」
「似たような?」
「私が王になった方が都合が良いという輩も少なからずいる。……いや、いた」
 レンは指折り数えようとしたが、すぐに「指が足りないな」とやめてしまった。ルーのあずかり知らぬところで、レンはルーへの刺客を幾度も止めてきたのだと分かった。

 ――それは、なぜか。
 兄の身を案じて――それ以外に理由はない。

 ラグの右手がふっと寒くなった。ルーが長椅子から立ったのだ。
 ルーはいまだ床に座るレンの前にしゃがみ込み、その両肩を掴んだ。力ずくでレンの身体を起こし、無理やりに目線を合わせる。
 悔しさを滲ませて、ルーが呻く。
「お前に嫌な仕事をさせて――俺がのうのうと暮らしてた陰で、手を汚させて! 俺は――」
「私は苦労自慢をしたい訳じゃない。放っておけなかっただけだ。知らなかったことが罪だというのなら、雪げばいい。埋め合わせるほど働けばいい話だ。謝られる筋合いはない。……それに、城で暮らす間にお前の手だってずいぶん汚れたはずだ。剣の腕ばかり上がったのだろう?」
 思いがけず優しい口調に、ラグ、そしてルーも、レンを見た。レンのペールブルーの瞳は、今日初めて暖かい光を抱いていた。
「私は、お前――いいや、アルノルート=ユリストバド=リトリアージュこそ王になるべきだと、もうずっと前から思っていたよ。市井の者たちの心が、痛みが分かる男こそ王にふさわしいとな。それなのにお前はなかなか腰を上げず、居心地のよい巣を見つけてしまった」
「それでも、逃げてた時間の中で少しずつ考えていって、やっと『どんな王になりたいのか』まで漕ぎ着けたんだよ。……俺は、機工師のような王になりてえ。依頼主の幸せのために心血注いで応える王だ」
「お前はこれから長い時間を手に入れるだろうが、私には時間がない。あまり焦らせるな。……ならばさっさと王になれ。フィスタのような――機工師のような王に」
 レンがフィスタがいないときに訪れたのは、そんな話を本人の前ではしにくかったからか、とラグは察した。
 これまで跡継ぎが曖昧なままだったのは、一の王子であるルーがそれを拒否していたからだ。当の本人が希望し、さらに二の王子がそれを後押しするのに、これを止める理由はない。現王がいつその位を譲るのか――という問題は残るけれど。
 お客のために力を尽くすフィスタを見てきたからこその『機工師のような王』という答えは、いかにもルーらしいし、迷いも無駄ではなかったとラグは思った。照れくさいのか、それともフィスタの名が出たからか、ルーは決まり悪そうに頭を掻いた。
「お前はしっかりしすぎてるんだよ。これじゃ、どっちが兄貴か分からねえじゃねえか」
「勘違いするなよ。私はアルノルートという男を認めただけだ。それがたまたま兄だった。ただそれだけのこと」
 レンはしれっと言うが、やはり表情は柔らかい。
 ――やっと、家族になり始めたんだ。
 まだぎこちない、できたての絆をラグは確かに感じた。今は細くても、これから何度も心を重ねていけばきっと太くなるだろう。ルーとフィスタの間にあるような――もしかしたら、それよりももっと強固な繋がりに育つかもしれない。
 ところで、とレンが怪訝そうに首を捻る。
「これで、依頼したものは完成するのか?」
「ええ。メルフィ様にもレン様にも喜んでいただけると思います」
 ラグは、ルーの代わりに胸を張った。
「あとは、献上の当日に見せるからよ。メルフィによろしく伝えてくれ」
「……そうか」
 レンは、少しだけ残念そうに呟いた。
 現物を見たかったのだろうか。しかし、ルーが内緒にしたい気持ちもよく分かる。枝には三羽の兄弟が仲良く羽を休めることになるのだ。レンがどんな反応をするのか、その日が楽しみだとラグは心を弾ませた。

 レンは帰りがけに、手つかずのまま冷たくなってしまった茶を一気に呷った。相変わらず、当然のようにラグの手を取って言う。
「ラグの茶は冷めても旨い」
「うちの妹弟子はお前なんかにはやらねえぞ」
「お前のものでもあるまいに」
 レンはルーに言い返すと、ふん、と呆れたような口調で付け加えた。
「私は、一度繋いだ手は離したくないだけだ。女性だけではない。家族もな。運命をみすみす逃がすのはごめんでね。どこかの誰かと違う」
「親父への当てつけか。……でも、それは――その通りだな。俺もそう思う」
「初めて意見の一致を見たか」
「メルフィのこと以外で、な」
 レンは、握ったままだったラグの手をそっと離した。ラグとルーを見比べて「戻らねばなるまい」と名残惜しそうに呟く。
「そろそろ、騒ぎになっているだろうからな」
「義母さんのことか」
「しかるべき裁きを受けさせるよう、私が責任を持って解決するつもりだ。身を賭して、新たな王となる兄のために働こう。……では、おいとまする」
 何かを断ち切るように、レンは強く言った。


 いくらも経たないうち、二の妃フロレナが体調を崩したという噂が市井を巡った。しばらくは公の場には出てこられないが、命に関わるほどのことではないという。
 それを聞いたルーが、ぽつりと呟いた。
「あいつはあいつで闘ってるんだろうな。……ひとりきりでないといいんだが」
 その言葉に、ラグは思わず窓の方を向いた。ここからは城は見えず、ただ青い空が広がっているばかり。
 ――レン様はどうしているのだろう。
 最後に会ったときの、レンのやつれた姿が思い出された。あの空色の瞳は、輝きを取り戻しているだろうか。